aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「母」

75歳を過ぎた近頃の私は、人の旅は、人間が生を受けた誕生日から始まり、遺構の日に終わると感じてきました。
 
「鍼」治療という仕事を得て、妊娠、時には授精から出産1か月前までの、お母さまのお腹の中の赤ちゃんをたくさん触察してきました。赤ちゃんによって、鍼をすると、体を伸ばしたり、足を左右ばたばた動かしたり、静かに丸まっていたり、様々な胎動を感じました。このような現象から、赤ちゃんそれぞれの出産後の生き方が現れているように思えてなりません。
 
私が生を受けてから遺構に近づいた今までの「たび」の経験をゆっくりまとめておき、皆様にも気軽に眼を通して頂こうと決心しました。
   
『母のたび』

私は、戦争中に生まれました。母はきっとほとんど食べる物も無く私を出産したと思います。それも予定より2か月早く生まれて来ましたので、どんなに苦心を重ねて育児に励んだかは想像がつきません。

弟の七五三(昭和26年) 向かって左、母。右、愛子8才
滋賀県から19歳でお嫁に来て、5年目に授かった姉も、色や光こそ見えていましたが眼が悪く生まれ、2番目に生まれた姉も、眼のパッチリした健常児でしたが、2歳で肺炎にかかり亡くなりました。
私が3女、そして戦後直ぐに健常な弟を生み、落ち着いた昭和31年には、流産。36年5月、45歳の若さで遺構してしまいました。

靖国神社にて(昭和32年)向かって左、愛子13才

母の家は、奈良時代から続いている鉢という名前の家柄でした。従妹である父と結婚したために、姉と私の二人の視覚障碍児(劣勢緑内障)が生まれました。

盲学校に入学させてもらい、二人の子供を学校まで毎日送り迎えしてくれました。常に小さな弟も一緒でした。
母の45年間は、非常に短かったと自身も感じたと思います。17歳の私に「お母さんはもう長くないから、亡くなったら親戚の人が来たら、、、して欲しい」と遺構数か月前に話してくれました。
 
最近、母と同じ45歳で遺構した、私が担任した生徒の事を知らされた時に、数十年ぶりに母と会った気がしました。母も担任した彼女も、真面目で子育てひとすじに生きた事は共通していると感じています
 
母が楽しめた時、気を休めた時はいつ頃だったかと思います。もしかして、私たちの就学旅行で、山形や九州に行った時に、列車の中で父兄同士で話し合ったり、いろいろな風景を見て喜んでくれたかもしれません。
 
琵琶湖で育った母のたびは、試練だけだったかもしれません。