aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「カナダ①JTBツアー旅行」1986

1986・95年頃の2回、私はカナダ旅行をしました。
1980年代はカナダへの新婚旅行なども流行っていて、若い人達から聞く「カナダは良いわよ」という言葉に惹かれていました。

私は日頃、学校の文書など多くの書類を墨字に直してくれているボランティアのSさんと2人で、JTBの西カナダ一般観光ツアーに初めて参加を申し込み、30数名と添乗員1名で、トロント・コロンビア大氷原・バンフ・バンクーバーなどの、街と自然や湖水を巡る8日間の旅を味わいました。

 

トロント


カナダは広く、1つの国の中で時差は4時間もあり、ある日は24時間、移動して次の日は26時間と変わっていく忙しい日々でした。

トロントは大きな街でしたが観光は500メートルの高いタワーのみ。緑も東京と同じくらい少なく、つまらない1日でした。

トロントからナイアガラ近くのホテルへ移動して、夜の11時頃にナイアガラの滝へ行くと、小さな赤ちゃんを背負ったお母さんや、世界から大勢の家族連れが、ライトアップされた滝を見に来ていました。

照明によって何十メートルの高さの滝の色が、赤、青、紫に見えて、それは夢のようなひと時です。私も滝の音を録音したり、カメラをSさんにあっちこっちと指示してもらい写真も撮ったりと、とても忙しかったです。

あくる日には遊覧船「霧の乙女号」に、大きな雨合羽を着せられて乗りました。滝つぼに入り、皆できゃあきゃあ言いながら飛沫を浴びて進んでいくと、本当にナイアガラの雄大さを感じました。 

 

ナイアガラの滝と花時計

西へ移動してバンフ、コロンビア大氷原へ。

 

バンフの町とホテル
フェアモント・シャトー、レイク・ルイーズ、ペイト湖、モレーン

 

320平方キロメートルのコロンビア大氷原は烏の足の様な形をしていて、手の甲の部分が氷原、三本出た指にあたる部分が氷河で、それぞれに名前が付けられています。私達が足を降ろしたのは一番小さい指で、幅1キロメートル、長さ6.5キロメートルのアサバスカ氷河です。

氷河は土砂崩れが起こって出来ていくもので、表層の分厚い氷が動き、それによって氷の下の土砂が真っ直ぐ垂直に進んで行く方、横に並行にはみ出て行く方、逆に押し付けられて上にはみ出る方の三つがあるそうです。

初めは黒い色をしているのに、歴史が経つと白、青と表現されるようになるそうです。JTBの方の話は見えない私にもよく解る説明でした。

 

私がアサバスカ氷河に足を降した時は、全身に感じるほど本当にサニーでした。

8月でも気温10℃ほどで、白い杖を頼りに足を進めました。ボランティアのSさんは滑りながら歩いていましたが、ジョギング靴を履いていた私はぜんぜん滑らずに歩けました。それに白杖がカバーしてくれましたから。

氷河の所々に溝があって水が流れています。100メートルほど歩いてかなり強い流れを見つけました。その流れに手を入れてみますと冷たくさらさらした水で、さらに手を伸ばしてみると、小石や小豆大の氷の粒がたくさん触れてきました。

皆、この氷や水を口に含んで立ち尽くしました。ここで、自然の歴史を感じ、人間の小ささを思い、ここまで来られた事に感謝して大氷原を後にしました。

 

 

アサバスカ氷河

 

バンクーバー
ビクトリア

たび「イギリス③私の英会話」1950年代~2013年

コッツウォルズからの帰りにロンドン郊外のバスターミナルまで私達が移動すると、たまたま時間の空いていたガイドのAさんのご主人が車で迎えに来て下さり、空港まで送って下さいました。

 

途中、ケンジントン近くのデパートか免税店に寄り、私以外の女性3人は買い物に行かれました。

私は研修でロンドンに行く度にお土産を買っていましたから「もういらない」と思い、Aさんのご主人と車で待つ事にして、その1時間余りは片言の英語で話をしていました。

 

イギリス人のご主人は数学の教員で、私も鍼灸の教員でしたので、お互い生徒の事やクラブの事を話しました。私はギタークラブの顧問をしていた時に、合宿で長野県の菅平に行った事や、学生の練習中に近くのゴルフ場をもう一人の顧問と二人で歩いて楽しかった事などを話しました。

 

ご主人は、「あなたは本当に旅行も学校も楽しそうにやっていますね」と言われ、また、「イギリスの食べ物は質素だ」と言われましたので、「ロンドンオリンピック(2012年)以来、とてもスープが美味しく思います」と申し上げたら喜んで下さいました。不思議にもその時は英語を使えました。最後のロンドンの思い出です。

 

 

私は中学校(1950年代)からずっと英語の授業を受けていましたが、ほとんどの先生は教科書どおりの授業でしたから、会話などできるようになる時代ではありませんでした。

 

中学2年生の頃、学校に月に2回くらい英会話の先生が来て教えて下さいました。アメリカ人の方で、時々4歳位のお子さんも連れて来られました。その子は授業中は教壇の近くに座って、おとなしく待っていました。私は英語の授業はもともと好きでしたから、わりあい一生懸命に参加した記憶があります。

 

1年間の英会話の授業の終わりに、「あなたは素質があるので、私の家に来て会話の勉強をしませんか」と先生に言われましたが、その頃はまだまだ子供でしたので、一人だけ習いに行っては悪いと思いお断りしてしまいました。その時に行っていれば、今もっともっと楽に外国人と話せたかもしれません。

 

私が教員になってから40代の頃(1970年代)、神保町にあったILC(International Language Centres https://www.ilc-japan.com/tokyo/ )

という所に英会話のプライベートレッスンを習いに1年間ほど通った事があります。私が習ったのはウェールズ生まれのイギリス人の先生で、日本の奥さんと息子がいる優しい方でした。

 

週1回の授業は、先生があるテーマについて会話を録音してきて、それを聞いて先生と2人で40分位話し合うというレッスンでした。時には私が招聘状を頂くための手紙を書いて行き、先生に数回、英会話の時間に正式な文章に直して頂く事もありました。私の英文は割合きちんと書けていたようです。

 

受付の方は夜遅いからと、親切に地下鉄の階段まで毎回案内してくれました。1年間通うと、外国人と話す機会があれば通じるようになっていました。

 

ILCで勉強した次の年に、ハインリヒ・シュッツ合唱団(https://www.musicapoetica.jp/)

のお供の鍼灸師として私も招聘を頂き、ドイツに行く事になりました。30名程のメンバーでバス1台に乗って10日間ほど北ドイツの教会等を回るコンサートツアーです。

 

ツアー中、合唱団のメンバーは少人数に別れてホームステイさせて頂く事になっていましたので、私もボランティアさんと一緒にハーメルンにあるキリスト教関係のおばあさまの家にホームステイさせて頂きました。お子さん達がアフリカや他の国にお住まいになっていたので、その頃はお一人で住んでおられました。

 

おばあさまはとても落ち着いた方で、さっぱりした英語で話して下さいました。夜遅くまで聖書について話し合えた自分が懐かしく感じられます。今ではご挨拶くらいの会話しかできないでしょう。おばあさまには泊らせてくれたお礼に肩こりの治療をして、その後は毎年、亡くなられるまでクリスマスカードを送りました。

 

合唱団は今も活動されています。私をドイツに招いて下さったT先生は敬虔なクリスチャンで、神様みたいな方です。だから先生を慕ってお弟子さんが来ているのでしょう。

 

 

その後もいろいろな国に行って研修や治療をやらせて頂くようになり、少なくとも飛行場ではブラインドサービスの方とは英語で話してきました。

 

イタリア人、韓国人、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、最後の海外旅行2019年のフィンランドヘルシンキ空港ではボスニアの方だったと覚ています。

 

カナダの国内線の機内では、隣に座ったインド人のお婆さんに親切にして頂いたので、「お手紙したいから住所を書いて下さい」と英語で言うと、「文字が書けません」と答えて下さいました。申し訳ない事を言ってしまったと思いながら、本当に親切にして下さったお礼を何度も言って、さようならをしました。

 

 

NYでは患者様と1対1で、片言でも話しながら沢山の方を治療させてもらえました。そこに来たハワイのおばあさまと、フィリピンで治療した画家だけは、話がわからない時にドアの外から通訳をお願いした事があります。

 

NYのブロードウェイで観たミュージカル『ライオンキング』と、ロンドンで観た『レ・ミゼラブル』は、両方とも分かりやすい英語で割合ついていけました。

 

今は本当に中学生より話せなくなってしまい、数年前に12歳のアメリカ人が診察に来た時もほとんど話せなくなってしまった自分が残念でしたが、数十年の間にいろいろな外国の方々と話ができました。

 

通訳をお願いしない限り、記憶は残るものだと信じています。

そして私の経験として残っていると感じています。感謝です。

たび「イギリス②コッツウォルズ・湖水地方」2013年

2013年頃、2008年にクロアチアへ一緒に行った3人で、イギリスの田舎コッツウォルズ(羊の丘)へ1週間ほどの旅をする事にしました。イギリスに住んだ日本人は必ず行っている所だそうです。行きはヒースロー空港から出ている長距離バスで3時間位。着いてみると、のどかな田舎町でした。


宿泊先があるブロードウェイは、中世からずっとこのままではないかという空気が流れていて、泊まったホテルもリゴンアームス(チャールズ1世が滞在したという建物を改装した所(The Lygon Arms https://www.lygonarmshotel.co.uk/)でした。


2階建てでエレベーターはなく、20段ほどの古い木の階段には幅の狭い絨毯が新たに敷かれていました。廊下には唐突に木の柱が出ていて、さらに彫刻いっぱいの木の椅子、ウインドケースにはグラスや陶器(どうも日本から来たらしい品)が綺麗に並べられていましたので、一人で歩くのは壊しそうで怖いと思いました。ギシギシ音の鳴るせまい廊下は、恩師が最期を迎えられた施設をふと思い出しました。


私の部屋は普通のカードキーでしたが、友人のツインルームの鍵は長さ10cm、太さ数cmの木で造られた物でした。部屋には必ずランプが2つはあり、バスタブも古いのでお湯と水の切り替えは蛇口が錆びていて大変でしたが、これを懐かしむ方もいらっしゃることでしょう。


周りはコテージ、テニスコート、クラッカーコート、スパ、宴会場などが備わっていて、どうも毎年夏には決まった方々がいらっしゃるらしく、部屋は満室。落ち着いた大通りに面した建物の静かな中庭で、宿泊客は三々五々、ワインやビールを飲んだり話したりして、パソコンをやっている人もいました。


私達も昼間にベンチや椅子に腰かけて、美味しいクランベリージュースを飲みながらゆっくりと話すことができました。一緒に行った7年前に亡くなられた年上のNさんは、若い頃の事をいっぱい話してくれました。福島生まれの彼女は長女ですが、独身。福島では長男は養子に行く家庭が多いそうです。日本でも地域によって風習がずいぶん違っていると思いました。


3人の内、1人が体調を崩してしまったので、Nさんと私はホテルの隣の画廊に行きました。私が見えない事をお話ししますと、画廊のスタッフの方は100万円以上もする彫刻に触らせて下さったり、1冊1冊、絵の本を手渡してくれて、ページを開きながら1時間も話ができました。そして帰る時には、私が気に入った絵本を1冊無料で下さいました。シェイクスピアの家には行くべきだと教えて下さり、なにか幸せな、温かいひと時を味わえました。


そしてホテルから100メートル位歩いたところで良いお店を見つけました。そのたばこ屋さんは、飴やウエハース、木綿のカーディガンや靴下などの雑貨も売っていて、私達は滞在中に3度も通いました。


リーフの紅茶も売っていたので、紅茶好きの私はたくさん買いたかったのですが、そんなには無いと言われてしまいました。小さな村の雑貨屋さん、昔の東京にも昭和20年代にはあったかもしれません。


ホテルから車で20分位の所にあるヒドコート・マナーガーデン( Hidcote Manor Garden 園芸家、ローレンス・ジョンストンが30年かけて作りあげた4万平米の庭)にも行きました。


そこは1日かけてやっと全てが見られるほど広く、たくさんの見所があるそうです。案内の人は「日が暮れるまで居ても良いですよ」と言って下さいました。私達はゆっくりと庭の半分位を歩くことができました。


池もあって、何の花々があったかは忘れてしまいましたが、東京の小石川植物園のように区画されていて、橋をこえるとヒース畑、右に行くと枝垂桜があったりと落ち着いたガーデンでした。所々にベンチもあって、お弁当を持ってきて食べている親子もいました。


コッツウォルズの街は歩いていても煩いパブはなく、馬で歩く人も何人か見かけました。都会育ちの私には、なんとも言えない田舎の自然な空気が心地良くて、また行きたい所だと思いました。

 


別の日も車で30分位かけて、シェークスピアの生家に行きました。偉大な方ですが、こんなにいろいろな物が残っているとは思いませんでした。


ベッドはどうも真っ直ぐ横になれない小さい物らしく、当時は水が大事だから溜めておく壺や、洗面所もありました。しかし、彼は貴族ではないので高級な家具などは残っておらず、彼が書いた原稿が多く残されていました。中庭では素人が演劇をしていたのが面白く、この街を歩くと、今でもゆかりの劇場が3つも残っているのには驚きました。


私は昔、『リア王』という劇を小学5年生の時にやらされた記憶があります。内容は何も覚えていないけれど三女の役で、白いブラウスに母が作ってくれたピンクのロングスカートを着て、一言二言、台詞を言ったのを思い出しました。


その後、朗演は何度か観に行ったものの自分が芝居をする機会はなく、そういった物語も読んでいません。海外の名作は中高の時に点訳、二十歳代ではカセットテープで音訳を聞いたりしていました。

 

コッツウォルズに滞在中、1日がかりでバスの乗り継ぎをしながら湖水地方へも行きました。


冬寒いためか雪が降るためか分かりませんが、通り過ぎていく家々は平屋で屋根の色は赤が多く、小さな窓辺にはヨーロッパらしく庭に咲いた花々を飾っていて「素朴な美しさがある」と、同行の人達はバスの中から一生懸命に写真を撮っていました。


乗り継ぎの小さなバス停に長く待っていましたら、お父さんと7歳位の子供がバス停で待っている人達に「肉はいりませんか、1キロいくら」とか、なまった英語で言って売りにきました。日本なら魚売りでしょう。直径20cm位、深さ40cm程ある売り籠をいくつか持ってきていて、びっくりしました。


自分の家で飼っていた牛や、ヤギの肉を売って生活している家族のようでした。貧しい田舎の親子です。学校にも行けない可哀想な子供だと察しました。近くに住んでいたなら買ってあげたいと思いました。


2013年頃の日本の田舎なら、どこかにスーパーかコンビニがあって、たぶんこのような風景には出会わないでしょうう。

 

ヒル・トップ(ピーターラビットの作者の家)へ着くと、そこは農地で涼しく、牛や羊がいっぱいでした。家の周りには石垣があって、どこへ行っても花がいっぱいで、8月でもまだ藤があり、ヤナギラン、枝垂れ桜、ヒース、クリスマスローズ、コスモス、ひまわり、ダリア、何だかいっぺんに咲いていて鮮やかで、りんごや洋梨がなり、犬の鳴き声も聞こえてきて、おとぎの国に来たような感じでした。


夕方にワーズワースの家や、彼が通った学校に行きました。彼が遺した物はひ孫が守っていました。


学校では朝6時から5時までびっちりラテン語ギリシャ語、数学等を習ったようです。教壇は今の演台のような感じで、しっかりした彫刻がなされていました。どうもイギリスはイチイの木がふんだんに使われているようです。箪笥も日本の昔の箪笥とよく似ていました。


私はワーズが座った椅子に腰掛けさせてもらい、そこにあった羽ペンで絵を描いてみたりしました。


川や湖、水の近く。人がそこで生活できるのはいつになっても変わらない。色は見えないけれど、さわやかな空気、花の香りは忘れる事はないだろうと思います。


イギリスの空は霧がかかって暗い時が多いけれど、人々は家族を大事にするし、親切に答えて下さるし、日本の田舎と似ているかもしれません。

たび「イギリス①エジンバラ・チェスター」2004年

1981年から2013年にかけて5回ほど行ったイギリスの旅で、2004年に私が計画した英国研修旅行ではスコットランドの首都、エジンバラまで足をのばして観光もする事にしました。

その頃JTBでは10名位から団体扱いをして下さいました。それに現地ガイドをお願いするのも大勢の方が割安になりますので、私は知り合いに声をかけて10名集める事にしました。

社会福祉の進んでいるイギリスに行ってみたいと言う友達や、私が教えた卒業生、ボランティアさんも私の知り合いに声をかけ、長旅を嫌がっていた姉も無理に誘うと10名になりましたので、実施することができました。

参加者は、新潟県、埼玉県、長野県の盲学校で按摩鍼灸を教えている先生方3名、「時々旅行があれば参加したい」という旅行友達2名、私と姉。

長野の先生以外は弱視で、一人の行動でも充分楽しんでもらえるような方々でしたので、付き添いのボランティアさんは3名。英語に長けていて、私の英語の翻訳本も読んで下さっているHさんと、その妹さん、私の姪にお願いしました。


BA(britishu airway)は、成田空港の南ウイングからの搭乗でした。エコノミークラスの右後ろの方に、10人何列かで座席を取る事が出来ました。

12時間のフライトでヒースロー空港へ。その日はロンドンで宿泊して、あくる日にBAでもとても小さな飛行機でエジンバラに向かいました。

和服を着ていた姪が、「おばちゃん、前の方にヨーヨーマが乗っていて、サインしてもらいたいのだけれど良いかなー?」と聞いてきました。もう一人20代の埼玉の先生も気が付いていて「二人で行ってくる」と行き、「英語でお願いしたら、気持ちよくサインして下さった」と喜んで後ろの席に戻って来ました。

私も日本で、ヨーヨーマの演奏は3回も聴きに行きました。大好きなチェリストです。若い彼女たちにとって、どんなに良い思い出になった事でしょう。


エジンバラは人口は少なく、ゴルフコースは300位もあって子羊や牛もゴルフ場にいます。古い教会も沢山あり、低い石造りだそうです。

私達は夜、広い教会でスコットランドフィルハーモニーの演奏を聴きました。ロンドンフィルと似ていて重厚な音だった事を覚えています。

エジンバラのメイン道路はニュータウンにあり「大使通り」と呼ばれています。道は必ず大家の名前が付いているそうです。サッカー場ラグビー場は「本当に広々していて気持ちが良く感じた」と、見える方々は言っていました。

デパートもあり、私はカシミアのタータンチェックのスカートスーツを買いました。手触りも良く楽に歩けるので、日本でも若い時にはよく使用しました。今でもジャケットは着られます。

公園も広く、ロイヤル・ボタニック・ガーデンという植物園では、ボールに戯れている少年達に出くわしました。明るい子供達の英語は判りやすかったです。私はキングズ(イギリス)の英語の方が聞き取れます。

植物園には、ヒース、白樺、釣鐘草が咲いていて、白、黄色、紫がとても綺麗でした。薔薇城のピンクのヒースも明るく綺麗に見えました。花の色などはまだ眼に近づければ見えていた頃でした。

お城のレストラン(カステルレストラン)での食事では、ソール(ひらめ)、海老、イチゴのアイスクリームがとても美味しかったです。石造りですから寒い感じがして夏にはちょうど良かったです。


この旅行の時にはチェスターにも1泊して、城壁の町チェスターを皆で歩きました。ところがお店で美味しい紅茶を買っている内に、出歩いた一人が迷子になってしまいました。

紅茶を買うのに一人ずつ量り売りをして下さいますから時間がかかります。英国人は、引き算ができませんから支払いにも時間がかかるわけです。

迷子の方はタクシーに乗って、ホテル名を見せたら大丈夫だったそうです。手分けして1時間探しても見つからず、皆ホテルに早く帰って待っていた甲斐がありました。

城壁の町は本当に路地も狭く、車も少なく、静かな田舎町でした。1戸建ての家はもしかしたら1000坪位はあると思われました。家々には好きな花々が植えられ、治安も良く高級な町とも感じました。


その頃のイングランドスコットランドでは通貨が異なっていて、1ポンド150円位。
紙幣は50・20・10・5ポンドの4種類。コインは7種類あるそうですが、私は50ペンスが6角形で好きでした。

ホテルの枕銭は一人50ペンス。有料トイレは10・20ペンス。ポーターやタクシーやレストランのチップは1割あげれば良いそうです。今も変わっていないかもしれません。

タクシーに乗る時には外で、「行き先・人数・荷物の数」を運転手に言ってから乗ります。私達は2台で行動しましたが、チップは1ポンド20ペンスかける5人(健常者)分でした。長距離でしたが福祉の国なのでチップも安く、1台分で済みました。

免税の手数料は50ポンドもかかりますが、沢山買った時は空港で手続きをすると、日本で郵送されていくらか戻って来ます。

私はスコットランドで買ったお金が余ったので、ロンドンの三越に行った時に日本人の店員さんに両替をお願いしてみたのですが、「スコットランド紙幣は替えられません、飛行機内でチェンジしてもらって下さい」と言われました。

帰りの飛行機内で聞きましたら、「日本円には変えられません、ドルで良いでしょうか」と言われました。日本ではスコットランドポンドは扱っていませんので、あきらめてドルに換えて頂きました。

たしか姉と私で500ポンド以上はあったと覚えています。「同じ国なのに難しい事があって大変だね」と皆で話し合いました。

30年に渡る 視覚障碍者女性の世界研修旅行記 第一部まとめ

77歳の視覚障害を持つ私は「痛くない鍼治療師」として、コロナの時期も、毎日6歳から87歳までの患者様の話を聞き、私の意見も言い、お互いに尊重し合った鍼治療が出来ています。

結婚こそしませんでしたが、商人の中堅クラスに育ち、自由な東京教育大学付属盲学校で、遊び、学びました。両親もやりたい事は出来るだけやらせてくれましたから、恵まれた学生生活を送れた事になります。

もし、大学に行くコースがあったら18歳で女子大に行っていたでしょうが、大学で視覚障害者が学べる制度が出来る1年前で、今より選択肢は限られていましたので、仕方なく教育学部特設教員養成施設に行く事にした訳です。

受ける以上は、毎日、点字のノートを読んで覚えました。普通科目は、旺文社の受験テキストを読み上げてもらって自分で点字に写して勉強し、弱い数学のみ、家庭教師に数か月習いました。冬には指先から血が出てしまうほど点字を読みました。

5倍以上の受験者で現役で受かる事は難しかったですが、何とか合格する事ができ、2年間、東大、横浜市大、防衛大、もちろん教育大の先生方の講義を受けました。寄宿舎にも入り、自由時間には友達と、コンサートに観劇にと忙しい毎日を過ごしました。

寮内では、英会話の会や、お灸の勉強会にも参加しました。大変だったのは卒論で、数人で夜中まで話し合い、そろばんを使って何度も計算をしたり、針や機械を使った実験をし合った事は、忘れる事は出来ません。

さらに就職してからも、日曜日や夏休みに、鍼の研究会に一人で参加した事は、今の私の鍼治療の基本になっています。そして、夏休みにはあちこち海外へ行き、研修させて頂いた事を今回纏めさせて頂きました。

今、若い患者様とお話できる事は、学校で生徒から自然に学んだ沢山のものが、役立っていると感じています。いろいろな積み重ねが木村愛子を作って下さった、感謝の気持ちとして研修旅行記を書いてみました。このような視覚障害を持つ人がいる事を多くの方に知ってもらえたら嬉しいです。

 

さらに私が体験した事柄が、視覚障害を持つ若者はもちろんの事、他の障害を持つ方々、普通の生活ができている方々にも生きる希望となり、未来に向かって頂けるよう祈っています。


ありがとうございました。

 

*第二部は、2020年までの国内外の、観光をメインした旅について書いていこうと思います。

たび「クロアチア ザグレブの大使館とドブロブニク」2008年

長い間、鍼治療に来院下さっているご主人が、科学者でありながら、クロアチア大使になられました。
体調も落ち着いておられないという事で、3年間の任期の間に、クロアチアで私の鍼治療を受けたいとおっしゃって下さいました。

私は日頃仲が良く、日常の事や仕事の事等のボランティアをして下さっている二人の患者様をお誘いして、気候の良い、大使の勤務が落ち着かれている6月に伺う事にしました。


私達はパリ経由で、クロアチアの首都、ザグレブに向かいました。
3人共、シャルル・ド・ゴール空港発だと思い、1時間位待っていましたが、何の音沙汰もなく、係りの方がいらして下さいません。私の直感はこのような時に感じられて「きっとこの空港ではないかもしれないですね」と、二人に話しました。

近くの座席に座っている方に片言英語で聞いてみましたら「バスで一駅乗ると国内線空港になるから、そこで聞いてみなさい」と言われました。短時間でしたが広い空港内のバスに乗って、降りましたら、なるほどクロアチア行きの小さな飛行機があって、その飛行機の1時間半位のフライトで、ザグレブ空港に到着できました。

機内で私の隣にはイタリア人の会社員が座られ、いろいろ話をしました。
本来、パリからイタリアは車の方が近いが、ご自分はほぼ毎日パリ、ローマを行き来しているので、時間のかからない飛行機を利用している事。オーストリアのウィーンとかハンガリーならば、クロアチアから500キロメートル位なので多くの人は車で移動している事。

彼は釣りが好きで、よくエビを地中海で釣って食べる事。などを話しながら、お茶のヘルプをして下さり、1時間のフライトは本当に短く感じられました。 


6月のザグレブは非常に暑く、37℃位ありました。
70代になるまでに、大使館という所に伺ったのはベトナム大使館とクロアチア大使館だけです。見えない私が代表で「木村」とサインして、公邸への訪問がスムーズに行きました。

「こんな汚い文字が残ってしまって良いのでしょうか」と緊張しながら、大使夫人に手を添えて頂き、サインをし終えました。数分ですが、本当に息もつけないほど緊張した事を思い出します。大使ご夫妻も「毎日が緊張の連続です」とおっしゃっておられました。

一度は大使公邸で、もう一度は私の宿泊しているホテルの部屋で鍼治療をさせて頂きました。大使がいらしたので、ホテルの前には2台の黒塗りの車が待っていたそうです。私には何事もない様に、いつもと同じに接して下さったご夫妻の素晴らしさを思い、今も感謝しています。

 

クロアチアは、ウィーン、ハンガリー、イタリア、ボスニアから400キロメートル囲まれている国で、首都ザグレブは、100万人の都市でした。戦争の後も濃く、ザグレブの町の地面下には「石のベッドが今もあります」と聞いてびっくりしました。

私達の観光には、大使館付きの京都出身の日本人ガイドをお願いして頂けました。そして、ザグレブから飛行機で1時間フライトをし、ドブロブニクに着きました。


ドブロブニクには、世界で3番目に古い薬局がありました。教会が、病院も薬局も持っていたようです。直径3センチメートル位の、小さな蓋つきの薬の入れ物を6ユーロで買いました。日本円で1500円位だと思います。

また、サラエボの戦い後の城壁が2キロメートル程ありました。階段も多く、3人のうち一人は高所恐怖症で「もう歩けない」と言うので、私が白杖を使って彼女を助け、城壁の半ばまで行き、戻って来ました。

石壁には、砲弾が突き刺さっていたり、穴が開いていたり、戦争の恐ろしさを手で触る事ができました。しかし、城壁を歩いていると下は真っ青の海で私にも綺麗な海の色が見えました。沢山の方が釣りを楽しんでおられたのも印象的でした。

あまりの暑さでしたので、城壁を降りてすぐに、ガイドさんも一緒にアイスクリームを食べて、やっと英気を戻し、歩く事ができました。

ドブロブニクは資源が多く、セルビアから攻められたそうです。資源戦争だった訳です。セルビアボスニアは金属が取れるがクロアチアは魚が取れる。人は、食べられないと憤るのだと感じました。

 

ドブロブニクには、15世紀からの城跡が沢山あります。その城壁のトンネルを越えると美味しい「隠れレストラン街」が残っています。イカを焼いた匂い、エビのリゾットの匂いと、何と平和な場所がありました。私たちはそこで夕食を食べました。とてもさっぱりした味でした。

そして、クロアチアの人々は明るく、親日的で、子供は歩いていると「こんにちは」と日本語で声をかけてくれました。多くの人が訪れてみたいと言っている国で、私もまた行きたい国の一つです。

たび「フィンランド⑤ヘルシンキの研修とベルゲン、バーデン=バーデンからアルザスへ」1990年代

北欧4か国の内、研修をした国はデンマークスウェーデンフィンランドの三ヵ国でした。ノールウエイへは90年代の研修途中に2回、ベルゲンへ観光に行く事ができました。

ベルゲンは音楽家グリーグの生まれた町です。白夜のまだ日の落ちない時間に、ホテルで紹介してくれたホールに向かうと、11時頃からグリーグの歌曲集を聴く事が出来ました。グリーグの曲は親しみやすく、ラファエロにも通じるような穏やかな感じがして、聴いているとスーッとします。

その国の音楽を、その音楽が生まれた土地で聴ける事、これは最高の喜びだと思います。なかなかそのチャンスは得られない事ですのに、私はウイーン、ザルツブルグプラハでも、自然と聴く機会に恵まれていました。

もうひとつ、ベルゲンの日本人経営のお寿司は、とても新鮮で美味しかった事を覚えています。


フィンランドの研修で行ったヘルシンキ郊外では、精神疾患の方々を通所サービスする施設を見学しました。驚いた事は、患者様が送迎バスで自宅から施設に来るとすぐに「今日の仕事は何にしましょうか」と尋ねられ、10項目のプランの中から2つを選んで、1日中行っている事でした。

例えば、今日は洗濯とギター。編み物とギター。本を読む事と体操。と患者様が決めると、本当にずっと何時間でも行っていました。

自己責任を持たせて、実行する事によって、今までの苦痛が和らぎ、癒されて、改善方向に向かう。この方針は、日本人には無い、自由を感じました。ストックホルムの高齢者施設でも同じような事が行われていました。

また、独身者、既婚者共に、施設利用者内で新たな人生のパートナーを作り、与えられた生涯を最後まで共に楽しむための環境も作られていました。それは、結婚をせずに歳を取っても仕事をしている私には、今でも理解しにくい福祉でした。


1999年、ドイツのバーデンバーデンに開業しておられる、皮膚科で鍼灸師の医師に頼まれて「アトピー性皮膚炎の鍼治療」を伝えるために、数人の卒業生と私の姪で行きました。 

スイスから通訳のために来て、フランクフルトの空港で待っていてくれたMさんとは、きちんと会う事ができ、携帯電話があると本当に大丈夫だという事を自覚しました。

フランクフルトから貸切バスで1時間北西に走り、アルザス地方(ドイツとフランス両方ある地域)に接している所にバーデンバーデンはありました。

(姪:バスから降りると、街中でありながら自然の良い匂いがしました。)

バーデンバーデンは温泉保養地で、皮膚科だけでなく、整形外科、小児科、婦人科内科、耳鼻科、眼科と多くのクリニックが密集していて、お金持ちのロシア人やドイツ人が別荘を持ち、温泉とそれらのクリニックを利用している所でした。

半日、皮膚科の先生を訪問してアトピーの鍼をやらせて頂き、さらに先生ご夫妻の腰痛治療もさせて頂きました。喜んで「早速この鍼をやってみます」と言って下さいました。

先生は皮膚科に用いる器具を、卒業生たちに見せて下さいました。紫外線治療器は新しく改良された、小さく扱いやすい物になっていました。

あくる日は、アルザスまで電車で行きました。

(姪:朝、ホテルの窓を開けると、教会の鐘の音が中庭に響き渡ってきました。たくさんの重なる音は素晴らしい音楽の中にいる心地がして、日本では聴けないものだなぁと思いました。)

ドイツの電車は、動物も自転車も人も一緒に乗れる事を知りました。
アルザスは、葡萄畑があり、市電も走っていて、いつでも乗り降りできるチケットが買えました。Mさんはフランス語も出来ますので、フランス領にも行けて、昼食にはガレットという、美味しいパイ生地の様な物にくるまれた野菜をいっぱい食べました。

(姪:白ビールの美味しさを知りました。フランス領は何を食べても美味しかったです)

バーデンバーデンに戻ると、そこからバスで、ブラームスが夏の休暇に使っていた家に向かいました。バス停から走って、閉まる17時にぎりぎりに着き、ブラームスが座っていたソファーに皆でほっとして座り、作曲家が居た、静かな空気感を味わうことが出来ました。夜、若い彼らは生ビールのカップを重ねて何杯飲めたと喜んでいました。落ち着いたドイツの町でした。