aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「イギリス③私の英会話」1950年代~2013年

コッツウォルズからの帰りにロンドン郊外のバスターミナルまで私達が移動すると、たまたま時間の空いていたガイドのAさんのご主人が車で迎えに来て下さり、空港まで送って下さいました。

 

途中、ケンジントン近くのデパートか免税店に寄り、私以外の女性3人は買い物に行かれました。

私は研修でロンドンに行く度にお土産を買っていましたから「もういらない」と思い、Aさんのご主人と車で待つ事にして、その1時間余りは片言の英語で話をしていました。

 

イギリス人のご主人は数学の教員で、私も鍼灸の教員でしたので、お互い生徒の事やクラブの事を話しました。私はギタークラブの顧問をしていた時に、合宿で長野県の菅平に行った事や、学生の練習中に近くのゴルフ場をもう一人の顧問と二人で歩いて楽しかった事などを話しました。

 

ご主人は、「あなたは本当に旅行も学校も楽しそうにやっていますね」と言われ、また、「イギリスの食べ物は質素だ」と言われましたので、「ロンドンオリンピック(2012年)以来、とてもスープが美味しく思います」と申し上げたら喜んで下さいました。不思議にもその時は英語を使えました。最後のロンドンの思い出です。

 

 

私は中学校(1950年代)からずっと英語の授業を受けていましたが、ほとんどの先生は教科書どおりの授業でしたから、会話などできるようになる時代ではありませんでした。

 

中学2年生の頃、学校に月に2回くらい英会話の先生が来て教えて下さいました。アメリカ人の方で、時々4歳位のお子さんも連れて来られました。その子は授業中は教壇の近くに座って、おとなしく待っていました。私は英語の授業はもともと好きでしたから、わりあい一生懸命に参加した記憶があります。

 

1年間の英会話の授業の終わりに、「あなたは素質があるので、私の家に来て会話の勉強をしませんか」と先生に言われましたが、その頃はまだまだ子供でしたので、一人だけ習いに行っては悪いと思いお断りしてしまいました。その時に行っていれば、今もっともっと楽に外国人と話せたかもしれません。

 

私が教員になってから40代の頃(1970年代)、神保町にあったILC(International Language Centres https://www.ilc-japan.com/tokyo/ )

という所に英会話のプライベートレッスンを習いに1年間ほど通った事があります。私が習ったのはウェールズ生まれのイギリス人の先生で、日本の奥さんと息子がいる優しい方でした。

 

週1回の授業は、先生があるテーマについて会話を録音してきて、それを聞いて先生と2人で40分位話し合うというレッスンでした。時には私が招聘状を頂くための手紙を書いて行き、先生に数回、英会話の時間に正式な文章に直して頂く事もありました。私の英文は割合きちんと書けていたようです。

 

受付の方は夜遅いからと、親切に地下鉄の階段まで毎回案内してくれました。1年間通うと、外国人と話す機会があれば通じるようになっていました。

 

ILCで勉強した次の年に、ハインリヒ・シュッツ合唱団(https://www.musicapoetica.jp/)

のお供の鍼灸師として私も招聘を頂き、ドイツに行く事になりました。30名程のメンバーでバス1台に乗って10日間ほど北ドイツの教会等を回るコンサートツアーです。

 

ツアー中、合唱団のメンバーは少人数に別れてホームステイさせて頂く事になっていましたので、私もボランティアさんと一緒にハーメルンにあるキリスト教関係のおばあさまの家にホームステイさせて頂きました。お子さん達がアフリカや他の国にお住まいになっていたので、その頃はお一人で住んでおられました。

 

おばあさまはとても落ち着いた方で、さっぱりした英語で話して下さいました。夜遅くまで聖書について話し合えた自分が懐かしく感じられます。今ではご挨拶くらいの会話しかできないでしょう。おばあさまには泊らせてくれたお礼に肩こりの治療をして、その後は毎年、亡くなられるまでクリスマスカードを送りました。

 

合唱団は今も活動されています。私をドイツに招いて下さったT先生は敬虔なクリスチャンで、神様みたいな方です。だから先生を慕ってお弟子さんが来ているのでしょう。

 

 

その後もいろいろな国に行って研修や治療をやらせて頂くようになり、少なくとも飛行場ではブラインドサービスの方とは英語で話してきました。

 

イタリア人、韓国人、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、最後の海外旅行2019年のフィンランドヘルシンキ空港ではボスニアの方だったと覚ています。

 

カナダの国内線の機内では、隣に座ったインド人のお婆さんに親切にして頂いたので、「お手紙したいから住所を書いて下さい」と英語で言うと、「文字が書けません」と答えて下さいました。申し訳ない事を言ってしまったと思いながら、本当に親切にして下さったお礼を何度も言って、さようならをしました。

 

 

NYでは患者様と1対1で、片言でも話しながら沢山の方を治療させてもらえました。そこに来たハワイのおばあさまと、フィリピンで治療した画家だけは、話がわからない時にドアの外から通訳をお願いした事があります。

 

NYのブロードウェイで観たミュージカル『ライオンキング』と、ロンドンで観た『レ・ミゼラブル』は、両方とも分かりやすい英語で割合ついていけました。

 

今は本当に中学生より話せなくなってしまい、数年前に12歳のアメリカ人が診察に来た時もほとんど話せなくなってしまった自分が残念でしたが、数十年の間にいろいろな外国の方々と話ができました。

 

通訳をお願いしない限り、記憶は残るものだと信じています。

そして私の経験として残っていると感じています。感謝です。