aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「イタリア⑥空港トラブルとイタリアの温かい家族」1990

1990年頃、私はシチリアカターニャにある物理療法学校に招かれました。
日本からの同行者には21歳の知人の女性をお願いし、学校とのやり取りはエトナさいとうを介して電話で行いました。

日本とイタリアの時差は冬8時間、夏7時間です。仕事を持っている私は、エトナからの電話をいつ受けたかは覚えていませんが、夜中もあったと思います。

イタリアの学校は6月から夏休みが始まり、9月まで生徒さんがいませんので、日本が春休みで向こうでは授業のできる3月に伺ったと思います。

渡航する日に、私の仕事の関係で、どうしても1日送らせて頂く事になりました。その連絡が時差の関係で誤っていて、大変な事が起こりました。


成田からイタリアまでは、JALアリタリア航空の共同運航便で、乗り継ぎはモスクワ、ローマ、カターニャ空港でした。モスクワ空港で2時間くらい待ち時間がありました。

若い彼女が「ロシアの帽子を買いたい」と言うので、空港の乗り継ぎカードだけをもらって急いで買い物に走りました。帽子は買うことができ、私はロシアのお金が欲しかったので、飴を買って見ましたら、おつりはなんと米ドルでした。

がっかりして、すぐ近くに見えた郵便局で「チェンジしたい」と言いますと「大使館に行って換えてもらいなさい、まっすぐに左に行って突き当りに日本大使館があるから」と聞き、走って行くと、クローズされていました。慌てて「戻ろう」と二人でまた走りました。

モスクワ着陸の時には、乗り継ぎの人は皆大きなカードをもらいましたが、アリタリア航空は、イタリアに行くゲート番号も出航時間のアナウンスも全くありませんでした。
「どうしよう」と空港内を二人で歩いていると、ふと、動いている荷物用のトロッコ音が聞こえて来ましたので、その音がする方向に行って見ると、空港内のスタッフが一人立っていました。

乗り継ぎのためにもらったカードを見せると「入りなさい」とジェスチャーで言って下さり、トロッコの脇の狭い道を通り抜ける事ができ、数メートル歩いた先には広い部屋が見つかりました。

そこで彼女に同乗していた人達を探してもらうと、見知った小父さん二人に会うことができましたので、今の話をすると「良かったね」と言って下さいました。ホッとして、これでイタリアに行けると思いました。感謝の一言です。モスクワ空港に残されたら、ロシア語の使えない私たちはどうなっていたかわかりません。

私たちは無事にローマに向かう事ができました。

 

ローマからカターニャまでは問題ありませんでした。ところが、カターニャ空港でまたトラブルです。確か午後11時くらいの到着でした。

荷物は出てきて、周りの皆さんが帰られても、私のお迎え、エトナと物理療法学校長がいらっしゃいません。飛行場のスタッフの方も、駐車場まで探して下さいましたが居ません。途方にくれていたら、イタリア人のご夫婦が声をかけて下さいました。

私は、すでに飛行場の方に招聘状を渡してありました。
ご夫婦はそれを読んで下さり「私の家に一晩泊まって、明日学校に連絡しましょう」と、私達を一緒に軽自動車に乗せて、ご自宅に招いて下さいました。

11歳のお嬢さんが夜遅いのに待っていて、英語が堪能なので、私達との会話に付き合って下さいました。飲み物とチーズ、クッキーなどを出して下さり、そして、ご自分たちのダブルべッドを私たちに貸して下さいました。

朝8時、英語の堪能な弟さんも来て下さり、学校と連絡が取れました。「あまり遅いので帰ってしまった」という事で、物理療法学校長とエトナは11時に改めて私たちを迎えに来る事になりました。

奥様は、朝食を出して下さった後、ベランダの草や花を触らせて下さいました。なんとお礼申し上げて良いかわかりません。お礼に私は、このご家族数人の鍼治療をさせて頂くと、皆様はとても喜んで下さいました。その後、無事に学校が用意したホテルに着く事ができました。

シチリアで、医師や数学の教師などをなさっているご家族でしたので「障碍者を理解できておられた」と感じました。

後に、奥様が乳がん末期だとフランスの病院で言われ、落ち込んで帰って来たところに私たちに会い「苦しみを1日忘れる事ができました」とおっしゃっていました。

 

3年後、私は、奥様の眠っているお墓をお参りできました。1室のお墓に6人位は入れます。3段になっていて、奥様は2段目で、またどなたかが3段目におられました。ご主人に「ご夫婦は一緒ではないのですか」とお聞きしてみました。「私は同じ部屋だけれど、隣になるはずです」と答えて下さいました。

今度は、ご主人とお嬢さん、お兄さんがランチを共にして下さいました。マグロの照り焼きや、野菜サラダをごちそうになりました。お嬢さんとは19歳で大学に入られるまで、私は文通しました。

なんと優しいイタリア人ご家族に出会えたことでしょうか。