aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「私の歌①」

私は東京教育大学教育学部付属盲学校(現在の筑波大学付属特別支援盲学校)に、5歳から23歳まで生徒として、その後60歳まで鍼学科の教員として勤めました。5歳から60歳までずっと同じ学校で過ごした事になります。
「井戸の中の蛙」という訳です。

私が教員になる前の校舎は、素晴らしい建物でした。今は愛知県の明治村に車寄せのみ展示されています。その建物の2階には、赤い絨毯が敷きしめられた講堂がありました。

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(2010年に「東京盲唖学校発祥の地 日本点字判定の地」の記念碑を、築地の市場橋公園内に建てました。その時の記念式典で配られた東京盲学校 校舎の絵葉書(左)とそれを立体コピーした絵葉書(右)です。)


そこでは小学部の小さな子供から専攻科の大人の生徒さんまで、一緒に音楽会、学芸会、さらには、有名な先生、例えばノーベル物理学賞受賞をなさった朝永先生の講演会もありました。


私は6歳の学芸会で、「カルメン(オペラ)」の兵隊さんとして舞台を歩いた事を覚えています。先輩方の美しい姿や声も忘れていません。

音楽会で、ヘレンケラー音楽コンクールで優勝なさった方が歌われたシューベルトの「冬の旅」。7歳の小さな子供が美しいと感じたその声の方は、今、バッハの研究者そして古楽器奏者で有名な、武久源蔵さんのお父様でした。


後年、私が鍼灸師になってから、ドイツとの文化交流で日本にハインリヒ・シュッツ合唱団が招かれた時に、代表者の淡野弓子先生からの要請で「鍼をして欲しいので一緒に来てください」と言われ、学校、文科省ともに許可が出て伺えました。


その時のオルガン奏者が武久源蔵さんでした。それから、体の何処かが悪いと来院され、鍼治療を通して、武久さんとは素晴らしいひと時を過ごしています。

 

※東京盲学校車寄について

明治43年(1910)に建てられた東京盲学校は、昭和42年(1967)に取り壊され、翌年、車寄部分のみ明治村に移築されました。本館の校舎は木造2階建てのE字型で、中央に車寄、2階には大講堂がある間口62mの大建築で、板張りの壁面には柱、桁、胴差(どうざし)などの垂直材・水平材と、筋違など、斜材を浮き出して装飾とするハーフティンバーと呼ばれる様式が用いられていました。
とりわけデザインが凝縮されていた木造の車寄部分は、天井や破風(はふ)の植物文様、柱頭、持ち送り、腰壁の幾何学模様が美しく全体をまとめ、独立した三連アーチがダイナミックな空間構成を演出しています。緩い鉄板葺きの切妻屋根は、移築時に銅板葺きに改められました。

明治村ホームページより引用させて頂きました。以下のURLに写真付きの詳細があります。)
https://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/1-10.html