aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「フィンランド④Haikoo Spa congress center」1995~2018

Haikoo Spa congress center は、広大な国営の医療施設です。主に糖尿病、腎臓病、骨の病気のケアーを行い、スタッフは医師1名、看護師2名、セラピスト数名、栄養士、ケースワーカー等、10名が常駐しています。日本の温泉施設には今もこのような医療スタッフの居る場所は無い様です。

1995年から2018年までに私達が10数回訪問している間には、自由に運動ができるフィットネスセンターや、いつも清掃が行き届いていて、とてもきれいな温水プールも出来ていました。

当時、私が驚いた事はミュージックセラピーの部屋です。リラクゼーションするための椅子が備えられ、一人用の椅子は柔らかい皮張りで、中にはクッションになる物が入っています。背中は150度位の角度がついていました。

自然に背中から腰、足へとなだらかになっていて、頭も平らな部分に置けます。飛行機のファーストクラスの椅子をもっと柔らかくして、足だけが下せるように低くなっている感じの椅子です。この心地よい椅子に座り、フィンランドのクラシックでしょうか、ゆっくりとした8分の6拍子の長調の音楽を15分位聴きます。眠りたい人はもっと長く居ても良いのです。

さらに、若い学生さんが好むカラーセラピーも、この椅子で、音楽を聴きながら行います。黄色は学習の色で、学校に行く前に子供たちが来て何分間か見続け、集中出来たら学校に行きます。なお、赤は興奮させる、緑は癒しの色、青は落ち着きの色、紫は悲しみの色だそうです。

癒しの音楽は、風の音でもなく、虫の声でもない。リズムが大事と言っていました。

リラックスするための体操は、眼を閉じて、手をゆっくりグーパーとさせたり、足をゆっくり上げたり、足首をゆっくり反らせたりします。末梢を何回かゆっくり動かしていると眠ってしまうそうです。メンバーの方も何人か眠ってしまいました。眠りは30分が良い様です。とても勉強になりました。

マッサージは、イスラエルの果物の匂いのクリームを用いて、全身または、半身、時間を区切って行います。とても難しく、一度ビデオに撮らせて頂きました。その後、私と同じ大学の卒業生で教員になった専門の方と、日本で文章化して、雑誌に書いたり講演会で実技講習を行ったりしましたが、4年間も学んだフィンランド人にはかないません。

私が気に入った物理療法機器は、Water massage というもので、37度位のお湯をはった浴槽に患者さんを裸で寝かせ、上部から垂らした管から冷たく感じない温度の水を、1気圧くらいの水圧をかけ、水中で手足の末端から皮膚の上に感じる程度に、数cm離して当てて施術していくものです。

始めは仰向け、次に伏臥位で行い、40分位で終わります。とても心地よく、リラックスします。

この機械はいくらで買えますか?と聞きましたら、300万円位と言われました。輸出もされているそうです。私の治療院に買いたいと思いましたが、寸法が合わず、残念ながら狭い日本の部屋では無理な事が判りました。

良い体験をさせて頂いて、卒業生に話して何度も伺ってしまった訳です。

 

たび「フィンランド③ Haikoo spa congress center へ 」

ヘルシンキ郊外、空港からバスで1時間ほど北東に向かって走ると、森と湖の村、Haikoo spa congress center と言われる国営の施設があります。

https://www.haikko.fi/en 

2棟のケアー施設と、マナーハウス、それに広い庭は、クロスカウントリーができたり、野外のバーベキューができるような所、さらにフィンランドらしくサウナの小屋も建っています。最近では結婚式場になる建物もできていました。

1990年代の Haikoo spa congress center は招聘を頂いたり、糖尿病の会議に参加する人しか行けないような所でした。

その頃に私の治療院に来て下さっている、英語に優れた患者様が「見学に行かれるのであれば、Haikoo と、自分の親友が勤めているスウェーデンストックホルムにある老人施設の、付添いボランティアをします」と言って下さいましたので、他の盲学校の教員の方に場所を教えて頂いて依頼状を出してみる事にしました。

するとHaikooもストックホルムもOKの返事の手紙が来ました。嬉しかったです。


フィンランドの物理療法学校は2年コースでは、マッサージまでしか教えられないそうです。
4年コースでは、解剖、病気についても勉強し、マッサージだけでなく、物理療法に用いる機械の操作や、リハビリのようなエクササイズ(訓練のための運動)も十分に習得できます。

私はマッサージの研修に、何度も出かけてやって頂くのですが、本当に今でもきちんと出来ないほど難しいテクニックです。オイルマッサージの研修を受けてきた何ヵ国かの中でも、4年間教育を受けているフィンランド人が一番上手でした。


Haikooは自然な空気は吸えるし良い所ですので、学生にも勧めて、何回も数人の研修旅行を企画しました。
一度、10人位のツアーを企画した時には、Haikooのスタッフにマッサージを一手技ずつ教えて頂き、英語のできる患者様に通訳をお願いして、2時間の交流マッサージをしました。私達は、日本の衣服の上から行う按摩をさせてもらいました。

私は11回位、Haikooに行っていると思います。一緒に行った皆さんはHaikooを気に入って「また行きたい」と、その後も3回は行かれましたので、いつも一緒に行った私は11回になった訳です。最後は2018年の9月でした。

以前、NYに一緒に行って下さったO様も、お姉様やご主人、車いすのお母様もお連れになりました。
もちろんフィンランドだけなく、せっかくですのでヨーロッパのどこかを観光します。その時はデンマークチボリ公園、ベルギーのブルージュ、イギリスの大英博物館などを観光しました。

海外でも一般のツアー旅行に参加した事は何度かありましたが、ただただあちこち、バスに乗って降りて観光するだけ。お食事が唯一、人々との接触の場でした。その時だけを楽しむには宜しいかもしれませんが、そのような旅行は、私は歳をとった今でもしたくありません。

自由な旅行を共にした彼らは、今でも喜んで語り合いますし、連絡を下さっています。親密な楽しい旅をした人同士は、その後もずっと交わりを持てるのではないでしょうか。

 

たび「フィンランドへ向かう②デンマーク」1994

デンマークでの研修は、気管支喘息の鍼治療をしていらっしゃる医師の招へいをもらいましたが「あなたの知っているとおり、喘息の鍼はあまり効果がありませんので、わざわざ来て下さる事は申し訳ない」というお手紙の内容でした。

飛行機のチケットがコペンハーゲン行きでしたので、コペンハーゲンにある、脳性小児麻痺など重症の子供達の幼稚園にも連絡を取り、見学させて頂く事ができました。

デンマークでは、寝たきりの子供でも、将来の可能性を信じて、一人の子供に10人の先生やセラピストがついて毎日リハビリをしています。

「どこまで話せるようになるか、歩けるようになるか、文字が読めるようになるかは分からないが、やれるところまでやる。可能性はどんな状態の子供でもある」

と言われて、実際に寝たきりの子供を、マットの上に座らせようと努力されているセラピストに会いました。その動作を行うのに4人がかりでした。出来た時には褒めて声をかけてあげます。

最近の日本では、スポーツの解説を聞いていると「だめ」とい言う方が多くおられ、相撲解説の稀勢の里二所ノ関親方)は必ず褒めていらっしゃる事に気付きました。日本の方では珍しく、大事な事だと感じています。


1990年代のデンマーク障碍者の年金は1人あたり、月に日本円で30万円程、配布されていました。そのお金でタクシー代にしたり、コンサートに行ったり、ボランティアさんへのお礼にしたりと自由に使えます。

日本の制度とはまったく違います。(令和4年で障害等級1級で月に8万円程)

日本のボランティアさんは、1時間1000円の報酬では少ないと文句を言っています。本来ボランティアとは無償でするものですのに、本当に日本の福祉のレベルの低さを感じずにはいられません。

でも、このように素晴らしい環境のデンマーク障碍者は、残念ながら認められ過ぎて、金銭的に豊かであっても自殺者が沢山いるのだと聞き、私はびっくりしました。


私は、障碍者も、自分で出来る事はやれるだけやって自立するように、「出来ない事」を手伝って頂く方針が望ましいと考えています。

たび「フィンランドへ向かう① イギリス・ドイツでの研修」1994

1980年代のヨーロッパ研修旅行は、視覚障害教育の現状を視察する目的で、全国の先生方に加わって勉強させてもらいました。

1990年代になって、私は鍼やマッサージの現状を知りたいと思うようになりました。
そのために、いくつかの論文を読んで、イギリス、ドイツ、デンマークなどのクリニックや物理療法学校に研修依頼の手紙を書き、招へいを頂けた所に、ボランティアさんと共に訪問しました。

イギリスのケンブリッジのクリニックでは、アラビア式の診断に基づいた鍼治療を受けさせて頂き、また、日本の針治療をお伝えする事が出来ました。

ドイツのマインツの物理療法学校では、当時としては新しい訓練機を見せて頂く事が出来ました。
呼吸器の内、鼻呼吸・口呼吸のリハビリのための、瀬戸物で精巧にできている訓練機を触らせて頂いた時に「まさに実際的なリハビリができる」と感じました。また、洋式トイレの形をしていて、実際に座らせて訓練する機械も既にありました。

いちいち鍵を開けて各部屋を案内して下さり、機械、器具等を触らせて下さいました。ドイツらしくきちんとしていると思いました。

最後に、ケースワーカーの方が「この機械が何であるか、操作ができるまで組み立てて下さい」と言われました。私はまず、全体を両手で触り「これは、低周波治療器です」と申し上げてから、コードを付けて、導子を付着させ、いろいろなスイッチを確認しました。

「40分かかりました、ずいぶん早いですね」と誉めて下さいました。私が全て出来るまで、じっと待って下さるワーカーの方に恐縮しました。「いつもこのように指導しています」と言われました。

 

「待つ事」指導者はこれが出来なければいけないのだと痛感しました。

日本で私が教える時には、国家試験のためのカリキュラムに追われ、ついつい学生の答えを待たずに、自分から答えてしまっていました。省みてとても恥ずかしく、教育者は「待つ事」が出来なければならない、と誓いました。

その後、物理療法の施設庁とマインツの市長さんが、私がとても良い研修者だからと、わざわざ市庁に招いて下さり、お土産まで下さいました。最も素晴らしいお土産は「物理療法の赤本の教科書」を下さった事です。

マインツの研修の際は、私が日本の按摩をドイツの学生さんにやってさし上げ、また、ドイツの結合式マッサージを見学させて頂きました。数種類あるマッサージに教科書は全くなく、一つ一つの手技を体で覚えるまで練習します。

日本ではマッサージの手順等が書かれている資料をもとに教えますので「何か資料はありますか」と私がうかがいましたら「体で覚えるのです」と先生は答えられました。
「なるほど、音楽と同じに体で感じとる事を指導しておられる」事を知りました。

多くの素晴らしい体験をさせて頂いた上に、私の「資料を」という言葉を覚えていて下さり、ドイツ語の赤本まで下さいました。なんと幸福な教師だと、自分に言い聞かせた夏休みでした。


その後、私が授業の中で「待つ事」を生かせた事は無いと感じています。本当に残念です。生徒が「先生の授業だけノート取ってあるよ」と言ってくれた時、いくらかドイツの体験が生かせていたかと感じました。

 

たび「イタリア⑨パリの夕食とシャンソン シチリアへ」

パリ最後の夜は、ガイドさんのご自宅に招かれました。
フランス人の消防士の住まいで、マンションでした。4人家族が住んでおられるそうです。

私には、パンとコンソメスープと子牛のステーキ、デザートは好きなアイスクリームでした。フランス人のいつもの夕食だそうです。

最後に「何か聞きたい事がありますか」と言われたので、「シャンソンが聞きたいです」と申し上げました。

この希望はかなわないと思っていました。もうフランス人はシャンソンを歌わないとガイドさんから聞いていましたから。

ところが、ご主人は、まだ歌える方でした。私の希望を聞いて下さり、2曲、静かに歌って下さいました。本当に感動してご主人に握手を求めてしまいました。ご主人もとても喜んでくださり、パリ最後の夜は、素敵な私の退職祝いになりました。


あくる日はシチリアへ。
パリ在住の患者さんも希望されましたので、一緒に向かいました。2時間のフライトでカターニャに着きました。小さな飛行機で隣り合わせたイタリア人の男性は「毎日この飛行機でイタリアとフランスを往復している、このコースが一番速いのだ」と話して下さいました。ヨーロッパは本当に国が隣接しあっているのだと感じました。

エトナと友達の迎えを受けて、懐かしいニコロジの村に着きました。イタリアの皆さんは「コメスタ」とハーグして下さいました。私も何度も伺っていますから、ハーグは大丈夫になりました。コロナの今、イタリア人は、どんな挨拶をしているのでしょう。

夜は、物理療法学校の生徒さん達がピザパーティーを開いて下さり、皆でダンスをしたり、歌ったり、とても歓迎して下さいました。私は、ピザのSサイズの半分も食べられませんでしたが、皆さんの気持ちは本当に嬉しかったです。

次の日は、シラクーサにつれて行って下さいました。暑い中、私の車の座席は往復とも素晴らしい日差しで、とうとう頭痛がして、熱中症にかかってしまいました。

すると、イタリア人は、大きなスイカを持って来て、「これを全部食べなさい」と、その大きさは、たぶん日本のスイカの2倍はあって、ラグビーボール型でした。その4分の1位を食べたら、頭痛が取れました。さらに「この大豆オイルを3日間塗ってごらんなさい、やけどが治るから」と親切に言って下さり、大豆オイルもプレゼントして下さいました。

私は日本に持って帰り、2年間、日焼け止めに使わせて頂きました。非常に良い民薬だと思いました。

イタリア人は、風邪には、カモミールティーに、はちみつとレモンと月桂樹の乾燥した葉を浮かせて飲んで治します。ドイツでもそのような方法があった事を覚えています。


ニコロジでお世話になった火山ガイド、アントニオさんの家にご挨拶をしに行くと、バールでのお食事に連れていって下さいました。

最後に頂いた、チョコ味のジェラートの上にアーモンドチョコレートを数個乗せたデザートは、初めて頂き、まだどの国でも頂いていません。とても印象的でした。さすが芸術の国イタリアです。

もう遠くて伺えませんが、若い方々には、イタリアに1度は行くべきと勧めている私です。


皆様本当にありがとうございました。優しいラファエロの国。

 

たび「イタリア⑧最後のイタリア渡航」2006

2006年夏。
筑波大学付属盲学校、教諭退職のお祝いに、私は一人でフランスに行き、パリで長年の患者さまと落ち合ってシチリアに行きました。パリ空港に着陸したとたんに、サプライズです。

空港内の警察官ジルが私を出迎えてくれました。彼はブラインドサービスの人と一緒に関係者しか通れない空港内通路を歩いて、私を税関まで送ってくれました。税関を出たところにはジルの奥さん(長年の患者さんのMさん)が待っていて、私が一人で泊まる予定のサンジェルマンのホテルまでを案内してくれました。

1994年にJTBの「瑠璃色の旅」でフランスを訪れた際、パリはフリーでしたので、現地のJTB日本人ガイドさんをお願いしました。とても行き届いた方で、私はルーブルを、姪はオフィス美術館を案内して頂きました。「次回はぜひ連絡を下さい」と言って下さいましたので、電話番号をお聞きしてありました。

私は退職祝いの旅に、その方にガイドをお願いした訳です。何度も出かける前にパリに電話して、ガイドさんのご自宅近くのホテルを取って頂く事ができました。

フランス語のまったく判らない私、ホテルのスタッフは英語はまったくだめ。ガイドさんは「何かあったら直ぐに電話して下さい」と言って下さり、ホテルのスタッフに私が目が見えなくて、フランス語が使えない事をよく話しておいて下さいました。


サンジェルマンの公園近くの小さなホテルは、ガラスの棚、ガラスの洗面所で、最初は怖い感じがしましたが、三日間泊まっても、私は何も壊さずにゆっくりできました。
ガイドさんは、朝8時半には来て下さり、夜8時まで一緒に過ごして下さいました。

食事ではパイのような、蕎麦粉の生地の食べ物も何回か食べました。まるで、ベトナムの春巻きのようなもので、ホウレンソウでもキュウリでも、果物でも何でも巻いて食べやすく、美味しかったです。


今回は、ドビュッシーの生家、モネの家、ラベルの田舎の家まで連れて行って頂きました。私はドビュッシーの裸体の像を触り、思ったより小柄な感じだった事、ロダンの「考える人」の本物を触って、なんという細やかな彫刻だろうと感じました。

不思議にもモネのお庭の池で、有名な「赤いスイレン」が1本生えているのを、私の見えないはずの眼が見えてしまった事は、今でもはっきり覚えています。

 

たび「イタリア⑦カターニアの物理療法学校」1990

カターニャの物理療法学校に招かれて、驚く事ばかりでした。まず私を迎える式典がありました。
校長先生、主任の先生のご挨拶があり、次に50名程の学生さんの中から、代表の方の心温まる言葉。たぶん、遠い日本から来て頂いて嬉しい事、日本の按摩や鍼を知る事ができて嬉しい事などを、話して下さったように覚えています。

私は早速、日本の按摩とヨーロッパのマッサージの違いを話しました。
ヨーロッパのマッサージは直接皮膚にオイルを塗り、筋肉に沿って、心臓に向かって行います。
日本按摩は衣服(浴衣など)を着たまま、オイルは使わず、経路に沿って、心臓から離れる方向に向かって行います。

まず3人の学生さんにベッドで伏臥位になってもらい、実際に日本按摩の触診の仕方や、脈診の仕方を学生さん達に直接教えていきました。

次に日本の鍼の種類について、材質は金、銀、ステンレスの3種ある事や、鍼の太さが注射針よりもずっと細く、直径0・20ミリメートル以下がよく使われる事などを話し、その細い鍼そのものを学生さんに一緒に触ってもらいながら、2名の先生方の治療も兼ねて、腰痛、糖尿病の鍼治療をさせて頂きました。

そして、日本でよく使っている様々な種類の鍼を、鍼屋さんでガラスの額にセットして頂いた物を、学校へプレゼントしました。


あくる日は、ちょうど遠足の日で、私も参加して下さいと言われ、貸切バスの前列に座らせて頂き、シラクーサ(ギリシャ神殿跡で、夏にはオペラが野外で演奏されるところ)に連れて行って頂きました。

帰りのバスで、糖尿病の先生が頭痛でつらいと言われ、鍼を希望されました。私はドイツで揺れるバスの中での鍼を経験していましたので、お断りせずにやらせて頂きました。

それでも、そうとうバスが揺れましたが、ツボの位置がずれてしまうのをしっかり押さえ、足のツボと手のツボ、頸の後ろと方の上に鍼をやらせて頂きましたところ「良くなった」と先生は睡眠をとられ、まったく元気にバスを降りられました。

こんなところでお役に立てるとは、経験の大切さを知った私でした。


三日目の昼間に、私は、校長先生から、感謝の額(イタリアの金で文字が書かれている物)とシチリアのナイトの大きなお人形を、私が勤めている学校と、私個人にも頂きました。貴重な額は、今も木村治療院に飾ってあります。

エトナさいとうが、カターニャの物理学校を卒業してからの事は、前述しました。
彼女は、すでにイタリア人です、明るくて意思もはっきりしています。ユーロになり、イタリアが貧しくならなければ、今もきっとエトナ山中腹の村、ニコロージで開業していた事でしょう。現在は日本に帰って、オルガンの趣味に時間をさいているようです。

いつかまた、エトナはイタリアに帰って活躍する時が来ると、私は信じています。