aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「イタリア⑥空港トラブルとイタリアの温かい家族」1990

1990年頃、私はシチリアカターニャにある物理療法学校に招かれました。
日本からの同行者には21歳の知人の女性をお願いし、学校とのやり取りはエトナさいとうを介して電話で行いました。

日本とイタリアの時差は冬8時間、夏7時間です。仕事を持っている私は、エトナからの電話をいつ受けたかは覚えていませんが、夜中もあったと思います。

イタリアの学校は6月から夏休みが始まり、9月まで生徒さんがいませんので、日本が春休みで向こうでは授業のできる3月に伺ったと思います。

渡航する日に、私の仕事の関係で、どうしても1日送らせて頂く事になりました。その連絡が時差の関係で誤っていて、大変な事が起こりました。


成田からイタリアまでは、JALアリタリア航空の共同運航便で、乗り継ぎはモスクワ、ローマ、カターニャ空港でした。モスクワ空港で2時間くらい待ち時間がありました。

若い彼女が「ロシアの帽子を買いたい」と言うので、空港の乗り継ぎカードだけをもらって急いで買い物に走りました。帽子は買うことができ、私はロシアのお金が欲しかったので、飴を買って見ましたら、おつりはなんと米ドルでした。

がっかりして、すぐ近くに見えた郵便局で「チェンジしたい」と言いますと「大使館に行って換えてもらいなさい、まっすぐに左に行って突き当りに日本大使館があるから」と聞き、走って行くと、クローズされていました。慌てて「戻ろう」と二人でまた走りました。

モスクワ着陸の時には、乗り継ぎの人は皆大きなカードをもらいましたが、アリタリア航空は、イタリアに行くゲート番号も出航時間のアナウンスも全くありませんでした。
「どうしよう」と空港内を二人で歩いていると、ふと、動いている荷物用のトロッコ音が聞こえて来ましたので、その音がする方向に行って見ると、空港内のスタッフが一人立っていました。

乗り継ぎのためにもらったカードを見せると「入りなさい」とジェスチャーで言って下さり、トロッコの脇の狭い道を通り抜ける事ができ、数メートル歩いた先には広い部屋が見つかりました。

そこで彼女に同乗していた人達を探してもらうと、見知った小父さん二人に会うことができましたので、今の話をすると「良かったね」と言って下さいました。ホッとして、これでイタリアに行けると思いました。感謝の一言です。モスクワ空港に残されたら、ロシア語の使えない私たちはどうなっていたかわかりません。

私たちは無事にローマに向かう事ができました。

 

ローマからカターニャまでは問題ありませんでした。ところが、カターニャ空港でまたトラブルです。確か午後11時くらいの到着でした。

荷物は出てきて、周りの皆さんが帰られても、私のお迎え、エトナと物理療法学校長がいらっしゃいません。飛行場のスタッフの方も、駐車場まで探して下さいましたが居ません。途方にくれていたら、イタリア人のご夫婦が声をかけて下さいました。

私は、すでに飛行場の方に招聘状を渡してありました。
ご夫婦はそれを読んで下さり「私の家に一晩泊まって、明日学校に連絡しましょう」と、私達を一緒に軽自動車に乗せて、ご自宅に招いて下さいました。

11歳のお嬢さんが夜遅いのに待っていて、英語が堪能なので、私達との会話に付き合って下さいました。飲み物とチーズ、クッキーなどを出して下さり、そして、ご自分たちのダブルべッドを私たちに貸して下さいました。

朝8時、英語の堪能な弟さんも来て下さり、学校と連絡が取れました。「あまり遅いので帰ってしまった」という事で、物理療法学校長とエトナは11時に改めて私たちを迎えに来る事になりました。

奥様は、朝食を出して下さった後、ベランダの草や花を触らせて下さいました。なんとお礼申し上げて良いかわかりません。お礼に私は、このご家族数人の鍼治療をさせて頂くと、皆様はとても喜んで下さいました。その後、無事に学校が用意したホテルに着く事ができました。

シチリアで、医師や数学の教師などをなさっているご家族でしたので「障碍者を理解できておられた」と感じました。

後に、奥様が乳がん末期だとフランスの病院で言われ、落ち込んで帰って来たところに私たちに会い「苦しみを1日忘れる事ができました」とおっしゃっていました。

 

3年後、私は、奥様の眠っているお墓をお参りできました。1室のお墓に6人位は入れます。3段になっていて、奥様は2段目で、またどなたかが3段目におられました。ご主人に「ご夫婦は一緒ではないのですか」とお聞きしてみました。「私は同じ部屋だけれど、隣になるはずです」と答えて下さいました。

今度は、ご主人とお嬢さん、お兄さんがランチを共にして下さいました。マグロの照り焼きや、野菜サラダをごちそうになりました。お嬢さんとは19歳で大学に入られるまで、私は文通しました。

なんと優しいイタリア人ご家族に出会えたことでしょうか。

 

たび「イタリア⑤シチリアの絵 エトナ山の鼓動 ブルカーノ島」

私がイタリアに行った時、鍼を頼まれて、シチリアの画家であるマリア様のアトリエにも何度か伺いました。三度目の時は自宅にも招かれ、ランチをごちそうになりました。

私は絵が好きですので、お話しながら彼女が描いた何十枚もの絵に手をかざして、10枚位、良いと感じた絵を「良い」と申し上げました。マリア様はその内のシチリアの海の風景画を1枚下さいました。

とても大きいサイズでしたが、帰りの飛行機では、係の方が特別に預かって下さり、乗り換えの時にはガイドの方が持って下さいましたので、大事に日本に持って来られました。

ところが、日本は湿気があるので、せっかく頂いた額は傷んでしまいました。銀座のイトウヤさんで代わりを探しましたが合うものはなく、我が家が取引のある松屋の画廊でガラスのケースを誂えてもらいました。

頂いた絵は、今も木村治療院の待合室に飾ってあります。患者様からは「自然な絵ですね」とよく言われます。マリア様に感謝です。

その後、イタリアから連絡があって、私が選んだ絵の中の1枚がイタリア全土で3位になったと喜んで下さっていました。

 

エトナさいとうは本当に火山を愛し、私が夏休みにカターニャに行く度に、一緒にエトナ山を登らされました。当時、3333メートルのエトナ山は、優しい女性の山。有名なベスビオ山は、男性の山だそうです。

エトナ山麓の700メートルに住んでいるエトナの家から、有名な火山ガイド、アントニオさんと一緒に登る事が多かったです。アントニオさんは、フランス語は堪能ですが、英語は全くだめでした。でも、山登りには言葉はいらないという事がわかりました。

アントニオさんと繋いだ手の動きで、登り降りる、大変な所、などを感じるのです。彼は世界で3番目の優秀な火山ガイドですから、ガイド料は本当はお高いのでしょうが、エトナと私には、全くのボランティアで案内してくれました。

1900メートルから2500メートル位まではケーブルカーがあって、いろいろなお菓子や絵葉書、キーホルダーなどお土産物も売っていました。何回か伺っている間の火山爆発が起った年には、お店もトイレも全部、無くなってしまいました。

イタリア人は、火山が爆発して、真っ赤に見えてごうごうと音が聞こえると、皆さん喜んでその話をしているようです。イタリア語のわからない私でも喜んでいる様子は感じられました。

彼らは、いつ溶岩で家が流されても良し、火山灰で畑が使えなくなっても良い、また住めるところに移れば良いからと聞きました。本当に自然を愛し、人々も愛し「日々が過ごせて水が飲めれば良い」と言っていました。素晴らしい事です。私にも、夏の別荘にここを買わないかと本気で言ってきました。

シチリアは、アフリカからの風が吹いて来ます、生ぬるい風でした。北半球の風とは違い、重い感じがした事を覚えています。

 

エトナ山の山頂は、とても広く、平らで、私が一人で歩いていても危なくないです。ところが、噴火口に近づくと、亜硫酸の匂いがしてきます。

一度だけ、アントニオさんが、私を噴火口に案内して下さいました。石だらけで、アントニオさんの手のままに足を運び、5メートル位深くに連れて行って頂けました。すごい匂いで息もできませんから、すぐに戻って、深呼吸をしました。良い経験をさせて頂けました。

また、エトナ山が爆発している時に、アントニオさんとイタリアの火山学者と一緒に、ジープで山頂近くまで連れて行って頂きました。研究者しか登ってはいけない時です。

山肌に足を肩幅に開いて置いてみました。エトナさいとうが「エトナ山の心音だよ」と言いました。本当に足底に、ゆっくり、温かさと、たぶん1分間に40回以下の心音を感じました。山にも鼓動があり、生きていると現実に感じたのです。驚くべき体験でした。


エトナはシチリア島の北にある島、ブルカーノにも何人かで連れて行ってくれました。私には英語の使える男性の方をガイドにして下さいました。

メッシーナからフェリーに乗りブルカーノ島に着くと、エトナは「登る前に海に入ろう」と言い、私に水着と体全体を巻ける木綿のスカーフを買わせました。もう一つ、ビーチサンダルも買いました。水着以外は25年たった今でも使えています。

ロッカールームで着替え、海に入りました。なんと温かい海です。初めての経験でした。1時間、温泉の海に浸かって、ドイツ人の女の方と片言英語で話をして楽しい時を過ごしました。

そして、今度は歩いてブルカーノのクレーターへ向かいましたが、行けども行けども着きません。ブルカーノは400メートル程の火山でした。麓から亜硫酸の匂いがして、登る度に噴火口があって、「まるでエトナ山みたい、火山だらけだね」と言ったら、「そうよ、これがブルカーノ(火山)」とエトナから説明されました。

朝から夜までカルテ作りのお手伝いをした私に、彼女はすごいプレゼントをくれました。

 

たび「イタリア④エトナ 1988」

1988年に、私がイタリア旅行を計画したのは「卒業生、エトナさいとうが入学できる盲学校がイタリアにあるか探す」という目的があったからでした。

エトナは、私が筑波大学盲学校に勤務していた頃に、音楽科に在籍していました。彼女が胃痛を起こした時、私の鍼治療を受けに来ますと、1回で痛みが治りましたので「なんと素晴らしい鍼だろう」と感じたそうです。それがエトナとの出会いでした。

エトナが卒業して1年位経つと、私の自宅に電話がかかってきました。
「イタリアのエトナ山と会いたいけれど、どうしたらイタリアに行けるかなー?」
エトナは子供の頃から本当に火山が大好き。愛しているのです。日本火山学会にも14歳から入会させてもらっていました。特に、未だ見ぬエトナ山は「私の恋人のようなものだ」と言います。

 

エトナがイタリア大使館に問い合わせてみたところ、盲学校がある事は分かりましたが、教育内容まで知ることはできませんでした。彼女はイタリア語も習って大使館に何度も交渉したそうですが、ビザをもらうには「何か仕事か勉強する事」という応えでした。エトナはまず、日本の按摩鍼灸の資格を持って、それからイタリアの盲学校に行く事にしたのです。

私は、生徒のためなら何でもやってあげたい教師です。お金のないエトナを助けるために、留学できるイタリア盲学校探しの旅行を計画しました。


イタリアには、ミラノ、パドバ、ボローニャカターニャの4か所に視覚障碍者を受け入れる学校がありました。ミラノの盲学校は、3歳から18歳までの子供を預かって、生活訓練や学問を行っているようでした。私は訪問する際に、日本の手作りの盲人用「触れられる絵本」を、プレゼントに持って行きました。

ところがミラノの盲学校の教育は進んでいて、すでに3歳の小さな眼の見えない子供に、匂いをかがせる容器(クッキー、バナナなど)を嗅がせて「これは何の匂い」と教えたり、いろいろな石や砂を触らせて遊ばせたり、点図で綺麗に、すっきり描かれたもの(コップ、スプーン等)を当てさせて教育していました。

その絵図は、さすがイタリアと思うほど判りやすく、芸術的な感じがしました。日本でもボランティアさんが作って下さいますが、その完成度は比較になりませんでした。「これは日本で作って下さった絵本です」と申し上げて、恥ずかしながらプレゼントとさせて頂きました。

ボローニャの盲学校では、音楽の上手な生徒さん達が歓迎して下り、リハビリ施設も見学させて頂きました。その時の通訳をして下さった方は、後に有名になられたソプラノ歌手の佐藤しのぶ様で、東洋医学の言葉も多かったのですが、見学中や食事を共にさせて頂いた時も、本当に一生懸命、通訳して下さいました。

 

エトナは日本の盲学校を卒業して、国家試験も合格し、鍼灸師の免許を得て、1年後(1989年)に、シチリアにあるカターニャの大学を受験しました。試験にはイタリア語でダンテの「神曲」の感想を書くことも含まれていたそうです。そして見事合格し、9月に入学。3年間通い、最優秀で卒業しました。私は1991年に一度、在学中の彼女を訪ねてあげました。

エトナは優秀でしたが、外国人であったためか、カターニャの病院をすぐ解雇されてしまいました。彼女はがっかりしましたが、そこには、救いの医師がいらっしゃいました。
「ニコロージ村で開業して鍼治療ができるようになりました。」

 

後に、私もニコロージ村へ伺うようになり、エトナが大好きな山々に囲まれて、村の優しい人々の中で仕事をしている事が分かりましたので、本当によかったと思いました。


開業したエトナは診察で判らない事があると、イタリアから国際電話をかけてきました。私は患者さんの様態を聞き、治療法を指示しました。

また2年に一度、こちらが夏休みの時に1週間イタリアに行って、エトナのアパートに宿泊しながら、来院する患者さんを朝から夜10時過ぎまで一緒に診察したりしました。エトナの通訳で、どのような治療が良いか、脈を診たり、問診や触診をして決めました。エトナはカルテに一生懸命書き込みました。

数回のニコロージ滞在で、200例以上を診させて頂きました。時にはご自宅に呼ばれ、治療する事もありました。

標高700メートルのニコロージの村には糖尿病の患者さんが多く、医師が少ないため、自分でインスリン注射をしていました。

そこで私は、患者さんの血糖値を下げるために、膈輸穴(かくゆけつ)に鍼をしばらく置くやり方、置進法を行って見ました。

すると、血糖値が200あった患者さんが160や150となりましたので、非常に喜ばれて、その他にも何人も患者さんを紹介され、5例ほど良い結果が得られました。


夕食は、よく招待を頂きました。イタリア人は朝食はバールで簡単にすませますが、昼食、夕食は必ずパスタとサラダを食べます。そのパスタの量は、90グラムが普通、70グラムは少なめだそうです。私は30グラム、子供サイズだそうです。

2回目に伺った時には「あなたはチーズ抜き、子供サイズだよね」と覚えていて下さいました。ほんとうに優しい方々です。子供は、最初にご挨拶をして、私たちが食事を終わると、またご挨拶に来て一緒に写真に加わってくれたりしました。ご家庭で、良く育てられていると感じました。

 

たび「イタリア③私の手が観た教会と芸術」

バチカン市国のサンピエトロ寺院では、歴代の法皇様のご遺体は、1メートル高い所に祀られていました。

以前訪ねた、イギリスのウエストミンスター寺院でも、大家の墓石は少し高い所に在って「ここには登らないように」と言われた事を思い出しました。そこでは、皆が歩く回廊の床にも様々な人達が埋葬されており、法律家のトーマス・モアや、スコッチウイスキーの「オールド・パー」由来の農夫の名前を、教えてもらって触りましたが、刻まれた文字は薄くなっていて、まったく判りませんでした。

サンピエトロ寺院でも、高さを確認するためにいろいろな法皇様の名前を触らせて頂きました。墓石はつるつるしていて、大理石で作られているようでした。どの法皇様も「気」が温かく、ここでは全てが平等である事を、強く感じました。

ミラノのスカラ座へ行った時は工事中で、一般の方々は立ち入れませんでしたが、視覚障碍者の私達は見学させて下さいました。木の良い匂いのする中、並んでいる常任指揮者の像、ロッシーニトスカニーニや、歌手のパバロッティなどの顔に触れる事ができました。

日本では、大事なものの多くはガラスケースに入ってしまっていますから、まったく触れませんし、感じられませんが、ヨーロッパはどの国も、視覚障碍者には触らせて下さいました。


私は、比較的若い頃から色々な気を感じやすく、芸術家の作品から発せられているものも、とても興味深く楽しめますので、ヨーロッパでも多くの美術館に行きました。どの美術館も柵はありますが、ガラス張りではありませんので、絵の感じをたぶん指先に感じやすいのです。

絵の方向に手をかざすと例えばゴッホの作品も、若い時には、力のある細やかな絵を描き、晩年はなぜか、力なく暗い感じの絵を描いているなあと私には感じられました。

サンピエトロ寺院にあったミケランジェロやダビンチの絵は、私はどちらかと言われたら、ミケランジェロの細やかな絵の方が好きでした。画家の中では、特にラファエロが好きです。優しい感じですから。

 

残念ながら、眼が見えなくなってからイタリアに行きましたし、フィレンツェのオフィス(ウフィツィ)美術館、オランダのゴッホ美術館、レンブラント美術館、サンクトペテルブルグのエルミタージュも、眼ではなく、手で感じて楽しみました。


そしてパウロ2世法皇の生まれた国、ポーランドの、塩の教会のあるヴィエリチカ岩塩坑に行った時には、歩いていると法皇様の足型を見つけましたので触りました。小さな足裏で指まで触れた事を覚えています。

ポーランドでは視覚障碍者用に、町の地図が所々に碩図になって触れられる様になっていました。全ての人々を大切にする法皇様は、素晴らしい方だと感じました。

 

たび「イタリア②ローマ~バチカン市国」1988

8月のローマは38℃。
太陽ギラギラの中を歩いてトレビの泉に行き「一度来たら、また来られる」といういわれを聞いて、皆でコインを投げてみました。その後、私以外のメンバーは誰もイタリアを訪れていません。
「幸運ももらえたかなー?」

ローマの地は、暗さや邪気が感じられる時もよくあり、私はバチカン市国の雰囲気の方が気に入りました。
サンピエトロ寺院で法皇様に謁見できる日だという事がたまたま分かりましたので、私はピンクのスーツに着替え、皆と一緒に向かいました。空は真っ青。「写真も撮れるわよ」と、誰かが教えて下さいました。

数年前に、故・増田次郎先生が「あなたはよく海外に行くのだから写真を撮ってみたら?それを立体コピーして、写真展に応募しなさい」と勧めて下さいまして、それ以降、海外に行く時はキャノンのオートマチックカメラを持参していました。


その時のカメラの方向が良かったと思います。後に日本に帰って、日本文化協会主催の「盲人写真展」に応募したところ、最優秀賞を頂きました。その写真と立体コピーは今も私の治療室に飾ってあります。

写真展にはその後も何回か入賞して、受賞作品は老人施設などに寄付できると聞きましたので、10枚位差し上げたように記憶しています。どなたかが見て、喜んで下さっていれば嬉しいですが。


サンピエトロ寺院のミサに参加する時には「貴重品しか持って入れません、大きな荷物は預けて下さい」と言われました。私は、白杖を持って入りたかったのですが、「これもだめ。傘と間違えられるから」と通訳の方に言われて、預かり荷物として持って行かれてしまいました。まだ白杖の事は、イギリス、フランスくらいしか判っていない時代でした。

法皇謁見のミサは3時間ほどあり、多くの参列者が集まって来ていました。私共は10人中、4人しか参加させて頂けませんでしたが、最前列の左の方の席に着くことができました。

法皇様が前にいらした時、まとっておられた法着は、白いですがよれよれした布でした。私は全くイタリア語が解りませんので、ガイドさんに言われた通り「プレイゴ」と言いました。
ところが法皇様からは、「神の見前に祝福あれ、あなたは光があります、頑張って下さい。」というお言葉を日本語で頂いてしまい、びっくり。ただ頷くだけでした。


なんという祝福を受けられた事でしょう。今こうして鍼をやれているのも「光」が与えられているからかもしれません。後に知った事ですが、「プレイゴ」は、法皇様が私に言って下さる言葉で、私は言ってはいけない言葉だった様です。

真夏の一日、世界中から多くの宗教家が集まる素晴らしいミサに参加できた事は、本当に偶然とは思えません。

 

たび「イタリア①アムステルダム~スイス」1988

1988年8月、私はJTBにお願いして、友人と、付き添いのボランティアさん達を含めた10数名の旅を計画しました。
メンバーは同級生とその友人、福井県在住の友達の友人、そのボランティアさん、私の学校での書類を代筆して下さっているボランティアさん、私の姉、そして私の患者様とご主人が、新婚旅行を兼ねて私をサポートして下さる事になりました。JTBからは、ガイドの方がずっと付いて下さいました。

成田からアンカレッジ経由でアムステルダム空港へ飛ぶのですが、トラブルで数時間遅れて、搭乗便は午後発から夜発へ変更になり、成田では待ち時間に軽いサンドウィッチが配られました。

アムステルダムには30時間以上かかって朝7時頃に着きました。
着陸してJTBのガイドさんが、「数十回ここに来ているけれど、朝陽を見られたのは初めてです」と言われた時、私たちは遅れて出発できたのは良い事だった、と見えない眼で朝陽をゆっくり見直しました。
空広く広がって飛行場からの太陽は綺麗でした。

アムステルダムでは2泊。ユダヤ人アンネの家と、ユトレヒトのオルゴール博物館見学は、今でもよく覚えています。オルゴールの大きさが、アップライトピアノの半分以上あり、木材も重厚で、音は柔らかく低い。そのようなものが何台も置いてありました。日本では触っていけないものが、十分に触れられる喜びも感じました。


次にスイスのチューリッヒへ飛行機で移動し、そこから登山列車でユングフラウヨッホに向かいました。途中駅のグリンデルワルトも素晴らしい所でした。

標高3454mのユングフラウヨッホ駅に到着すると、3571mのスフィンクス展望台へ皆で登りました。
展望台の手前には氷の部屋があって、様々な氷像の中に日本人のお相撲さん、たしか千代の富士の氷像もありました。

つるつるした氷のうしろは、夏だというのに真っ白な雪景色。同行の彼女は眩しくて歩けないと言うので、私が白杖を付きながら彼女の手を引いて雪の展望台を15分くらい歩きました。世界中から沢山の人が来るヨッホは、いろいろな言語が耳に入って来ました。

登山列車では、誰も高山病になりませんでしたが、一番年を取られた方が頭痛がするからと先に山を降りて、待っている事になりました。

私たちは、頂上近くのカフェで、スイス本場のチョコレートドリンクを飲みました。スイスのチョコレートは本当に今でも大好きです。野菜サラダもあってシェアーしながら皆で美味しくいただきました。


長期旅行組と分かれ、姉を含めた4人はここで先に日本に帰る事になりました。
ガイドの方は姉達を送りに、アムステルダム空港まで往復して下さいました。アムステルダム空港は治安が悪く、慣れているガイドさんも待ち合い室などで、数時間眠る事はしてはいけないそうです。
次は、いよいよローマです。

たび「ニューヨーク⑥ワシントン大聖堂 ヘレン・ケラーの墓石を訪ねて 2015」

ヘレン・ケラーさんは、1937年(昭和12年)4月29日に東京盲学校においでになられ、1時間講演されたそうです。

私がヘレン・ケラーさんのお声をお聞きしたのは1955年(昭和30年)10歳位の頃でした。当時私が通っていた東京教育大学付属盲学校(旧東京盲学校)の生徒全員が日比谷公会堂に行って、お話をお聞きしていると思います。

当時の私には「盲聾」という事や、英語で話される内容はわかっていなかったでしょうが、美しく高いお声は発音もはっきりしておられ、素晴らしい方だと思い、感動したのだと思います。

その後11歳の頃に、ヘレン・ケラー伝を読んだ記憶はありますが、70歳を越えた私は「素晴らしい盲聾の先駆者でいらっしゃった」という事しか知らずにおりました。そんな私が、ヘレン・ケラーさんとサリバン先生が眠る大聖堂を訪問する機会ができたのです。

 

私がワシントン大聖堂に伺える事になりましたのは、ニューヨークに13回ボランティアで鍼治療に伺っている間、いつもお世話をして下さっていた方々の中に、たまたまご主人が数年前にワシントンに仕事で移られていたY様がおられ、2014年から1年間かけて交渉して下さったからでした。

大きなイベントが3週間前に行われていなければ、訪問は可能であるとのことでしたが、本当のところは「3日前でないとわかりません」との報告を頂きました。

最後にY様が交渉して下さった時は、ちょうど私たちが東京からニューヨークに出発した飛行機の中でしたので、ニューヨーク到着後すぐに確認の連絡をしたところ、訪問の許可がおりていました。
それからというもの、当日、大聖堂でお参りできるまで、期待に胸を膨らませていました。

 

2015年8月27日朝、私は同行して下さった新潟県の友人と、ニューヨークのウエストチェスター空港からワシントンへ向かいました。

ニューヨークからワシントンまでの道のりは約300kmあり、日本で例えると東京―大阪間に等しく、比較的日帰りしやすい距離だそうです。ワシントンはとても車が多く、歩いている方々も急ぎ足で、世界一の政治機關機関の街と直ぐに感じました。

ワシントン到着後、Y様と空港外でお会いし、私達は早速Y様のお車でワシントン大聖堂に向かいました。
道中のアーリントン墓地には戦没者、またケネディ大統領夫妻のお墓もあるそうです。さらに、国立美術館ホワイトハウスを越えて進みますと、一番山の上にワシントン大聖堂が聳え立っておりました。

大聖堂の入り口には売店があり、リンカーンなど有名な方のTシャツやスカーフ、聖堂の立体模型なども売っておりましたので、私も帰りにいくつか求めてまいりました。
売店を越えますと、大聖堂内の一番大きな教会があり、ここでアメリカ合衆国の名高い方々の葬儀が行われます。

大きな教会を越えますと左に地下に降りる階段が10段ほどあり、その階段を下りますと、オー・ヘンリールーズベルトと名高い方々の墓石が並んでおりました。

さらにそのエリアを越え、大聖堂の地下を5段廻って8段、さらに3段降りてすぐ右側にヘレンケラーとサリバン先生の墓石がありました。1メートルほどの高さで、横幅は80センチ位のお墓だと思います。墓石の表面はグレーでざらついた感じがいたしました。

石灰岩でできている粗い石のような碑には、お二人の火葬された灰の一部が砂となって埋められているそうです。そして、墓石の表面上側にのB5サイズ位の横長のプレートに、二人のお名前と亡くなられた日付が普通の文字と点字で書かれてありました。

英語の点字で「ヘレン・ケラーとサリバン先生の墓石」と書いてあります。皆さんが沢山読んで点字が薄くなっていたため読みにくく感じました。私は、ほんとうに夢を見ている思いでした。

 

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もうひとつ嬉しかった事があります。生涯平和のために貢献なさったヘレンケラーさんの墓石の左隣には、小さな教会がありまして、関係ある方でしたらいつでも、そこでお祈りができるのです。そこは気持ちの良い「気」を感じると同時に、とても好意的に感じました。

そして墓石のすぐそばにある3段の階段を上ると、左に木の柵があり一般の方が入れない場所があります。
そこにはアメリカ国家に活躍された多くの方の灰が祀られております。ヘレン・ケラーさん、サリバン先生の灰もまた、この場所に祀られていらっしゃるのです。

「ここは、平等な所」「平和を代表する所」と感じ、いつも清らかな心でおられたヘレン・ケラーさんにお会いでき、今も教会に守られておられる事に本当によろしかったと安堵して合掌をして、祈ってまいりました。


私は帰り際に係の方へ、佐藤隆久先生の書かれた本『日米の架け橋-ヘレン・ケラー塙保己一を結ぶ人間模様』をお渡ししてきました。この本は、ヘレン・ケラーさんが尊敬していた日本の江戸時代(今から300年ほど前に活躍された視覚障害国学者)の伝記が英文と日本文で書かれてある本です。大聖堂にある図書室に置いて頂けるそうです。

ヘレン・ケラーさんだけでなく日本の塙保己一先生も、世界中の若い方々にきっと知っていただける事と願って、最後に大きなカテドラルに一礼をして、帰ってまいりました。本当に「感謝」の数時間でした。

その後、東京からワシントン大聖堂にお礼のお手紙を書きましたら、10日位後に、喜んで下さった絵葉書が届きました。「美しい本ありがとうございました」とも書いてありました。

 

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2016年4月22日の午後、私が長く勤務しておりました現在の筑波大学付属視覚特別支援学校(旧東京盲学校及び東京教育大学付属盲学校)の資料室に伺いました。そこで、素晴らしい事に出会えました。

1926年、当時の東京盲学校教諭、後に校長になられた秋葉馬治先生が「斬新の盲教育探求調査」を、現在の文科省から命ぜられて2年間大米留学された時に、アメリカでヘレン・ケラーさんにお会いになりました。

その時にヘレン・ケラーさんが秋葉先生に送られた直筆のメッセージが資料室から見つかったそうです。資料室便り3号に記載された文の抜粋を書かせて頂きます。


“The story of my life”邦訳題『わが生涯』 ヘレン・ケラー直筆メッセージ

To Mr. Akiba

We exaggerate misfortune and happiness alike. We are never so wretched at so happy as we say we are.
Faithfully yours

Helen Keller.

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ヘレン・ケラーのサイン(筑波大学視覚特別支援学校資料室提供)

今回、見返しの部分に書かれた直筆の文字に触らせて頂けました。
30秒か1分の間で、アルファベットは全く判りませんでしたが、肉筆が強く、2行ほど横に真っ直ぐ書かれた横書きの文字だという事が良く判りました。

偉大なヘレンケラーさんの文字、声、そして墓石と触れられました私はなんと幸せ物者でしょう。数ヶ月たった今ふと思い出しますと、深い祈りと熱い涙が浮かんでまいります。感謝の1年間でした。