aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「私の歌②」

私の育った盲学校の音楽の授業は、とても進んでいたと思います。1950年代頃ですと歌を歌わせるか合唱で歌うか、楽器でもハーモニカができる子供がいたくらいでした。


1953年頃、私たちは授業でウェーバーの「魔弾の射手」やハイドンの曲をレコードで聞かせてもらったり、担任の先生がクラシックが好きで、放課後にもベートーベンの「英雄」「運命」「田園」と毎日のように聞かせて下さり、レコードの先頭で「これは何番か」と当てさせられました。同級生には、数秒で「5番、運命」と当てられる人もいました。

また、現在では教育界で問題にされてしまいますが、放課後に音楽の先生が童謡やピアノを教えて下さったりと、楽しい時間でした。盲学校関係では「ヘレンケラー音楽コンクール」があり、私も8歳の頃に「ないしょ話」を歌って童謡の部で1位になりました。

ある時、先生が「NHKの声比べに出て見ようか」とおっしゃられ、当時3人くらい出演し、私も「野菊」を歌いました。どうゆう訳か合格の鐘が鳴り、先生も喜んで下さいました。その先生は「美しき天然」の編曲などで当時有名な、志賀静男先生でした。

また、NHKがこの子の歌を録音したいと言われ、大きなマイクの前に立たされて3番まで歌いましたが、緊張して歌詞を間違えてしまいました。録音直しはありませんから、しばらく夕方になると、NHK第1放送から流れる自分の声を聞いて、いやだなあと感じました。

何十年経っても、子供のころの経験は、講演会など頼まれた時に役立っていると感じております。