aikokimura’s diary

私は鍼師で視覚障害を持っております

たび「クロアチア ザグレブの大使館とドブロブニク」2008年

長い間、鍼治療に来院下さっているご主人が、科学者でありながら、クロアチア大使になられました。
体調も落ち着いておられないという事で、3年間の任期の間に、クロアチアで私の鍼治療を受けたいとおっしゃって下さいました。

私は日頃仲が良く、日常の事や仕事の事等のボランティアをして下さっている二人の患者様をお誘いして、気候の良い、大使の勤務が落ち着かれている6月に伺う事にしました。


私達はパリ経由で、クロアチアの首都、ザグレブに向かいました。
3人共、シャルル・ド・ゴール空港発だと思い、1時間位待っていましたが、何の音沙汰もなく、係りの方がいらして下さいません。私の直感はこのような時に感じられて「きっとこの空港ではないかもしれないですね」と、二人に話しました。

近くの座席に座っている方に片言英語で聞いてみましたら「バスで一駅乗ると国内線空港になるから、そこで聞いてみなさい」と言われました。短時間でしたが広い空港内のバスに乗って、降りましたら、なるほどクロアチア行きの小さな飛行機があって、その飛行機の1時間半位のフライトで、ザグレブ空港に到着できました。

機内で私の隣にはイタリア人の会社員が座られ、いろいろ話をしました。
本来、パリからイタリアは車の方が近いが、ご自分はほぼ毎日パリ、ローマを行き来しているので、時間のかからない飛行機を利用している事。オーストリアのウィーンとかハンガリーならば、クロアチアから500キロメートル位なので多くの人は車で移動している事。

彼は釣りが好きで、よくエビを地中海で釣って食べる事。などを話しながら、お茶のヘルプをして下さり、1時間のフライトは本当に短く感じられました。 


6月のザグレブは非常に暑く、37℃位ありました。
70代になるまでに、大使館という所に伺ったのはベトナム大使館とクロアチア大使館だけです。見えない私が代表で「木村」とサインして、公邸への訪問がスムーズに行きました。

「こんな汚い文字が残ってしまって良いのでしょうか」と緊張しながら、大使夫人に手を添えて頂き、サインをし終えました。数分ですが、本当に息もつけないほど緊張した事を思い出します。大使ご夫妻も「毎日が緊張の連続です」とおっしゃっておられました。

一度は大使公邸で、もう一度は私の宿泊しているホテルの部屋で鍼治療をさせて頂きました。大使がいらしたので、ホテルの前には2台の黒塗りの車が待っていたそうです。私には何事もない様に、いつもと同じに接して下さったご夫妻の素晴らしさを思い、今も感謝しています。

 

クロアチアは、ウィーン、ハンガリー、イタリア、ボスニアから400キロメートル囲まれている国で、首都ザグレブは、100万人の都市でした。戦争の後も濃く、ザグレブの町の地面下には「石のベッドが今もあります」と聞いてびっくりしました。

私達の観光には、大使館付きの京都出身の日本人ガイドをお願いして頂けました。そして、ザグレブから飛行機で1時間フライトをし、ドブロブニクに着きました。


ドブロブニクには、世界で3番目に古い薬局がありました。教会が、病院も薬局も持っていたようです。直径3センチメートル位の、小さな蓋つきの薬の入れ物を6ユーロで買いました。日本円で1500円位だと思います。

また、サラエボの戦い後の城壁が2キロメートル程ありました。階段も多く、3人のうち一人は高所恐怖症で「もう歩けない」と言うので、私が白杖を使って彼女を助け、城壁の半ばまで行き、戻って来ました。

石壁には、砲弾が突き刺さっていたり、穴が開いていたり、戦争の恐ろしさを手で触る事ができました。しかし、城壁を歩いていると下は真っ青の海で私にも綺麗な海の色が見えました。沢山の方が釣りを楽しんでおられたのも印象的でした。

あまりの暑さでしたので、城壁を降りてすぐに、ガイドさんも一緒にアイスクリームを食べて、やっと英気を戻し、歩く事ができました。

ドブロブニクは資源が多く、セルビアから攻められたそうです。資源戦争だった訳です。セルビアボスニアは金属が取れるがクロアチアは魚が取れる。人は、食べられないと憤るのだと感じました。

 

ドブロブニクには、15世紀からの城跡が沢山あります。その城壁のトンネルを越えると美味しい「隠れレストラン街」が残っています。イカを焼いた匂い、エビのリゾットの匂いと、何と平和な場所がありました。私たちはそこで夕食を食べました。とてもさっぱりした味でした。

そして、クロアチアの人々は明るく、親日的で、子供は歩いていると「こんにちは」と日本語で声をかけてくれました。多くの人が訪れてみたいと言っている国で、私もまた行きたい国の一つです。